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「弁証法」から「存立構造論」へ -- ヘーゲルとマルクスの眼光をめぐって



1. 「大哲学者ヘーゲル」という虚像

 ヘーゲルが哲学史において果たした役割の大きさは疑う余地がない。けれども、ヘーゲルが自身の哲学体系を完成させたかという問いには、安易に首肯することができない。

 かつての哲学界では、ヘーゲルは過度に神聖視されていた。ヘーゲルの弟子たちが「ヘーゲルが西洋哲学史の頂点だ」と説明してきたこと、マルクスが自らを「ヘーゲルの弟子」としたこと、サルトルがヘーゲルの「弁証法」を継承したことで、少なくとも哲学史家とマルクス主義者と実存主義者は、ヘーゲルを偉大な哲学者と見なすようになった。ヘーゲルを敬う態度が読解に先行していたのであり、『精神現象学』や『論理学』の難解さは、ヘーゲルの思考を理解できない読み手の未熟さとして解釈されてきた。

 21世紀になってようやく、「大哲学者ヘーゲル」という虚像が剥がれてきている。彼は決してテクストを緻密に組み立てる人間ではなかったし、自らのアイデアを徹底して哲学体系を完成させた人間でもなかった。ヘーゲル哲学を象徴すると言われる「弁証法」の実態は、後述するように、彼が複数のアイデアを混同してしまった産物なのである。

 そうは言っても、ヘーゲルが凡庸な哲学者だったわけではない。哲学者の偉大さは、本人の人生やテクストに内在するものではなく、後世の人々がその哲学者から継承したものの大きさで示されるだろうが、その意味でヘーゲルは間違いなく偉大である。ただし、彼の偉大さとは、後世の人々がヘーゲルから発掘したアイデアを育てたことによるものであって、彼自身の哲学の完成度を示すものでは決してない。

 さて、ここで二人の研究者の見解を比較してみよう。一人は岩崎武雄 (1913-1976) で、日本にカントやヘーゲルを「世界最高峰の思想」として紹介した人物である。もう一人は加藤尚武 (1937-) で、ヘーゲルから神秘のヴェールを取り払い、日本のヘーゲル読解を世界水準まで引き上げた人物である。まずは岩崎のヘーゲル理解から見ていこう。

こうしてヘーゲルにおいて弁証法はいろいろ異なった意味を持ってくる。それは、もともとは認識の弁証法であった。そして私はこの意味での弁証法はたしかに十分の意義を持っていると考える。しかしヘーゲルの観念論的形而上学によって「概念」というものが実体化されてくると、弁証法はまず歴史の弁証法という意味を与えられ、さらにまた諸対象の持つ構造のあいだに存する「概念」上の展開という意味に転化する。〔......〕しかし、とにかく実際上、ヘーゲルの弁証法にはこのような多くの意味が与えられている。そしてこの混乱こそ、弁証法によって貫かれているヘーゲル哲学をきわめて難解なものとしている原因ではないかと思われるのである。

岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』第四章

 岩崎は、難解なテクストの深奥に「哲学体系」が埋まっているはずだと信じて、ヘーゲルと格闘し続けた。これはもちろん、前述したようにヘーゲルを敬う態度が読解に先行していたのであって、ヘーゲルの哲学は完成されていなければいけないという強迫観念に呪われていたと言える。しかし、そんな岩崎でさえ、最後には「ヘーゲルの弁証法にはこのような多くの意味が与えられている」としたうえで、それを「混乱」と認めざるを得なかった。

 岩崎の文章からは、ヘーゲル哲学を完成されたものと見なす風潮と、実際のテクストに見られる「混乱」のあいだで、葛藤している様子がうかがえる。一方、ヘーゲルの哲学が完成しているとは見なさない加藤は、以下のようにヘーゲルを突き放してみせる。

社交好きでブラック・ユーモアの名手、オペレッタやワインが大好きで、そのくせ文章はいつも殴り書きというヘーゲルの実像が、いつのまにか、精密で巨大な著作群を営々と築き上げた哲学の巨人というイメージにすり替えられてしまった。

加藤尚武「ヘーゲル」 同氏編『哲学の歴史7』

「非常におもしろい、シャープな思想家だけれども、なんか大きな建物ができ上がっているという感じではない。せっかくのアイディアを何も完成しなかった哲学者」というのが、本当のヘーゲル像ではないかと思う。

同上

 このように加藤においては、「大哲学者ヘーゲル」という虚像が完全に取り払われている。しかし加藤も、ヘーゲルを全否定するのではなく、アイデアとしては面白いものがあったと評価している。

 ヘーゲルのアイデアを批判的に継承した学者としてもっとも名高いのはマルクスだろう。そこでこの論考では、ヘーゲルのアイデアを整理したうえで、それがマルクスによってどのように批判され、あるいは活用されたのかを提示する。そして最後に、彼らのアイデアがもたらした可能性について論じようと思う。


2. ヘーゲルにおける「弁証法 Dialektik」

 岩崎武雄が認めざるを得なかった通り、ヘーゲルは「弁証法」に多くの意味を与えている。ヘーゲルの哲学を「弁証法の哲学」と呼べばそれで全体をつかめたような錯覚に陥るが、弁証法がさまざまなアイデアの混同として語られているのだから、そのラベルは哲学体系の呼称としては死んでいる。

 ここでは、ヘーゲルの「弁証法」を四つのアイデアに分解して整理しようと思う。ただし、この整理はヘーゲルのテクストと正面から向き合ったものではなく、マルクスがヘーゲルをいかに読んだかということを強く意識したものである。そもそも、こちらがいくらヘーゲルと正面から向き合おうとしても、ヘーゲルのテクストは我々を相手にしていないのではあるが。

(1) 認識が高次化されていく過程

 さて、ヘーゲルの「弁証法 Dialektik」の基底にあるのは、プラトンの「問答法 dialektikē」である。すなわち、人間は「対話 Dialog」を通じて認識を高次化させていくことができるという確信である。

 対立する意見をもった人間たちが、対話によって高次の共通了解に至る、ということが弁証法のモデルケースだろう。しかし、ここでの「対話」は人間と人間との対話に限られない。人間とモノとが対話することで人間の認識が更新されることもある。たとえば、パッと見て幽霊だと思ったものを、よくよく観察してみると枯れたススキだった、という事態も対話のケースである。〔幽霊の正体見たり枯れ尾花〕

 ここで鍵となっているのが、認識における矛盾 = 対立である。はじめに「幽霊」を認識したときには、ただ幽霊が認識されているだけでそこに矛盾はない。しかし、少し冷静になって考えてみると、幽霊は現実には存在しないという常識が意識に上ってきて、意識のなかに矛盾が生まれる。この矛盾があるからこそ人間は認識を更新しようとするのであって、「幽霊」をよく見てみると枯れたススキだったことが分かるわけである。同様に、人間と人間との対話においても、認識の矛盾や対立こそが対話の推進力となる。

 この点において、ヘーゲルは何も新しいことを生みだしていない。すべてはプラトンが二千年以上前に書き残したことである。しかしこの弁証法を基底として、ヘーゲルはアイデアを展開していく。

(2) 精神の自己運動として

 プラトンにおいては、問答法の果てに《善そのもの》を直観できるとされた。これはいわゆる「善のイデア」であり、世界の真理である。問答法によって認識を高次化させていき、最後には絶対的な真理に至るというプロセスは、ヘーゲルにおいて独自に解釈される。

 ヘーゲルの特徴は、精神をある種の自己運動として理解していることである。すなわち、人間が認識を高次化させるのではなく、精神が自己運動して認識を高次化させるのである。そして、さらに特徴的なことは、その自己運動が、二重のレベルをもつ自己運動だということである。〔以下では、マルクスがヘーゲルをいかに読んだかを念頭に置いている。〕

 認識が高次化していく過程は、高次の自己運動として把握される。ここでは、プラトンにおける《善そのもの》に相当するものとして「絶対精神」が措定される。こちらの自己運動は、プラトンの問答法から人間を排除して、認識だけを取り出したものだと考えてよい。ところで、高次の自己運動が可能となるためには、あらかじめ特定の認識が確立している必要があるが、その特定の認識を成立させることがすでに精神の自己運動なのである。これが低次の自己運動であり、通常は運動だと認識されない運動である。

 この説明では分かりにくいので、台風に例えよう。天気予報で「台風が北上しています」と言われるとき、台風はひとつの固まりとして認識されて、その固まりが運動している。これが高次の自己運動に相当する。しかし台風をよく見ると回転しており、その回転こそが台風を台風として成立させているのである。この回転運動が、低次の自己運動に相当する。

 しかし、例えが役立つのもここまでである。精神の低次の自己運動は、それが意識されないことによって認識を確固たるものとするからである。あらゆる認識は低次の自己運動によって生みだされたものだが、意識にとってはただ対象が現れたようにしか経験されない。先述の例において、意識は「幽霊」が自らの外部にまさに存在するかのように経験する。しかし実態としては、意識の対象となる「幽霊」と、「幽霊」を対象として経験する意識とが、精神の低次の自己運動によってセットで生みだされ、その生成の過程が意識においては忘却されているのである。

 そうして「幽霊」の認識が確立するからこそ、幽霊は存在しないという「常識」が、「幽霊」の認識に対するアンチテーゼとして意味をもつ。この「常識」についても、精神の低次の自己運動によって(それを認識する意識とセットで)生みだされている。この認識上の矛盾は、さらなる観察を媒介にして、「枯れたススキ」へと高次化される。この高次化の過程は、精神の高次の自己運動である。しかし、やはり「枯れたススキ」の認識それ自体を生みだしているのは低次の自己運動である。

 まとめると、精神には二重の自己運動があって、認識を確立させる低次の自己運動と、認識を更新する高次の自己運動がある。低次の自己運動は、「意識の対象」と「対象を経験する意識」をセットで生みだしたうえで、その生成の過程を忘却する過程である。高次の自己運動は、確立した認識と認識を突き合わせて、その矛盾を契機に認識を更新し、矛盾していた認識を廃棄する過程である。そして、低次の自己運動と高次の自己運動の双方が、まとめて「弁証法」と呼ばれる。

 このように精神を二重に自己運動する主体として把握したことは、ヘーゲルのアイデアとして最も価値あるところだろう。このアイデアを批判的に継承して組み立てられるのが、マルクスの『資本論』である。人間が社会の存立構造をその内部から捉えるためには、精神の低次の自己運動を発見することが必要だった。

(3) 歴史法則の正体として

 ヘーゲルは、人間社会を発展するものと捉えていた。これは、科学や産業の発展を目の当たりにした同時代人のあいだで流行した進歩史観である。科学や産業の発展は、倫理的に卓越したリーダーが社会を変えていくようなものではなく、むしろ個々の人間の無秩序な運動が、全体としてひとつの大きな流れを生みだしているように見えた。

 そうしてヘーゲルは、歴史のうちには人間の手で動かしようもない法則があり、この法則によって歴史の過程は必然的に定められていると考えるに至った。これは、人間を主体だとしない進歩史観に他ならない。ヘーゲルは、人間ではなく精神を歴史の主体にすえて、精神の自己運動として歴史を解釈したのである。すなわち、歴史の法則性と弁証法が接続されてしまった。

 ここでヘーゲルの歴史哲学を展開するのはやめておこう。歴史に法則性があるという考え方は、マルクスによって引き継がれた。ただし、マルクスが「歴史の弁証法」を継承したかどうかについてはひとまず保留しておく。

(4) その他の妄言

 ヘーゲルは、精神や歴史のほかにも、さまざまなものを「絶対精神」に向かって弁証法的に自己発展していくものとして捉えた。ここでは、その一例として自然哲学をあげておこう。基本的にはヘーゲルを敬愛する岩崎武雄も、この点ではヘーゲルを擁護できないようだ。

ヘーゲルが「自然哲学」を、「力学」「物理学」「有機体的物理学」の三段階に分けていることはすでにちょっと触れておいたが、ヘーゲルによれば、これらの三段階の対象はしだいに精神に近づいていく序列をなしているものとして考えられているのである。「力学」の最初の対象は空間であり、「有機体的物理学」の最後の対象は動物的有機体である。空間は最も精神から遠く、動物的有機体は最も精神に近い。そしてこの二つの極のあいだにすべての自然的対象が位置づけられるのである。しかしこのような考えが概念の実体化から生ずる概念の弁証法であり、なんら根拠あるものでないことは改めて言う必要も存しないであろう。ヘーゲルの「自然哲学」がその体系のうちで最も価値なき部分と一般に考えられているのも当然と言わねばならない。

岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』第四章

 ヘーゲルの自然哲学を敢えて解釈するとすれば、ヘーゲルが精神の低次の自己運動の罠にはまった結果だと言えるだろう。低次の自己運動によって、精神は「意識の対象」と「対象を経験する意識」をセットで生みだし、その過程を忘却する過程を通して、意識にとって対象がそれ自体で存在するように見せかける。岩崎の言う「概念の実体化」とはすなわち、対象としての概念がそれ自体で存在すると思い込むことであり、ヘーゲルはその罠に囚われてしまった。

 自然科学の発展とともに、ヘーゲルの自然哲学は妄言として忘れ去られていった。当然の成り行きである。


3. マルクスにおける「弁証法 Dialektik」

 マルクスは、ヘーゲルとは異なり、弁証法に一切の神秘的な含意を与えない。マルクスにおける「弁証法 Dialektik」とは、対話によって認識が高次化する過程であり、すなわちプラトンの「問答法」と同義である。

 弁証法は、『資本論』の叙述の方法である。その具体例として、『資本論』の第1章の論理展開を以下に示そう。第1章の詳細はこちらの記事を参照していただきたい[link!]

<<< 以下、『資本論』第1章における弁証法 >>>

  • [正] 商品には「使用価値」と「交換価値」がある。

  • [反] 「交換価値」は商品と商品との関係のなかにしか見出せない。

  • [合] 商品には「使用価値」と「価値」がある。

  • [合→正] 商品の「使用価値」は労働の「有用労働」としての部分から、商品の「価値」は労働の「抽象的人間労働」としての部分から、それぞれ生みだされる。

  • [反] 一つの商品が「使用価値」と「価値」を同時に有することはできない。また、労働が「有用労働」と「抽象的人間労働」を同時に実現することはできない。

  • [合] 商品を商品として成立させていたのは「商品関係」である。生産物が互いに関係を取り結ぶなかで、「使用価値」と「価値」、「有用労働」と「抽象的人間労働」が、それぞれ振動している。

  • [合→正] 貨幣とは、生産物が互いに関係を取り結ぶなかで、どの生産物にとっても普遍的な〈他者〉として析出されたものである。

  • [反] 現実に関係を取り結ぶのは、生産物ではなく、人間である。人間と人間との関係が、モノとモノとの関係であるかのように語られている。

  • [合] 人間相互の収奪的な関係性が生産物を媒介にして生じるときに、生産物そのものが関係性を取り結んでいると錯覚され、人間の認識のなかで生産物に社会性が付着する。それこそが「商品」と「貨幣」の正体である。

  • [合→正] 錯覚の産物である「商品」が、自明な存在として人々に認識されるとき、商品は〈物神〉となる。人間相互の社会性をモノの等価交換によって説明し尽くす「商品」は、それが〈物神〉だと認識されないがゆえに〈物神〉なのである。

<<< 以上、『資本論』第1章における弁証法 >>>

 マルクスは、一般の労働者たちに資本主義の複雑怪奇な構造を理解してもらうために『資本論』を書いた。低次の認識から出発して高次の認識に到達する弁証法〔問答法〕は、叙述の方法として最適だったのである。


4. マルクスにおける「精神」と「歴史」

 この論考では、ヘーゲルの「弁証法」を、①認識を高次化させる問答法、②精神の自己運動、③歴史の法則性、④その他の妄言、と分けて整理した。マルクスが『資本論』の叙述の方法として継承したのは①である。ここで④は問題外として、マルクスは②と③をいかに扱ったのだろうか。

(1) 精神の自己運動としての資本制社会

 ヘーゲルにおいて、精神は二重に自己運動しているとされた。「意識」と「対象」がセットになった認識を生みだす低次の自己運動と、複数の認識を突き合わせて認識を更新する高次の自己運動である。認識が更新される過程だけでなく、認識が認識としてただ成立している状態すらも運動 = 過程として捉えたところに、ヘーゲルの慧眼がある。

 ヘーゲルにおける精神の高次の自己運動は、精神が自己運動して「絶対精神」へと発展する過程である。実は、これと同じようなことが『資本論』で記述されている。すなわち、商品が自己運動して貨幣へと発展し、貨幣が自己運動して資本へと発展し、資本が自己運動して自らの支配力を高めていく過程である。これは裏返して、「等価交換」の原理のみが貫徹されているはずなのに、行為事実的には非等価交換としての「搾取」の強度が高まっていく過程である。

 商品に付着した〈物神〉は、自己運動して資本を生みだす。そして資本に付着した〈物神〉は、自己運動して資本を増殖させる。資本が増殖するにしたがって、自己運動する〈物神〉は、やがて全宇宙を支配する「絶対者」となる。このように、『資本論』は明らかに『精神現象学』の構成を継承し、〈物神〉が自らを高次化させていく過程を記述している。

 その過程は精神の高次の自己運動に相当する。しかしヘーゲルによれば、高次の自己運動が遂行されるためには、低次の自己運動によって「認識」そのものが成立している必要がある。これを『資本論』に置きなおすと次のようになる。すなわち、資本制社会における〈物神〉の自己運動が遂行されるためには、原初の〈物神〉である「商品」が、何らかの契機によってあらかじめ成立していなければいけない。

 それでは、「商品」はいかに成立しているのか。実は、人間が「商品」を頭のなかで作りだし、その過程を忘却する過程を通して、「商品」が自明な存在としての地位を獲得するのである。これはまさしく、精神の低次の自己運動に他ならない。人間こそが、「商品」という対象と、「商品」を対象として認識する意識とを、それぞれ生みだしているにもかかわらず、その過程が隠蔽されることによって、ごく当たり前な存在としての「商品」と、「商品」を自明なものとして扱う人間が生みだされるのである。この過程を、マルクスは「物神崇拝」と名付けた。

 「商品」は、等価交換の原理のみに従う。厳密に言うと、あらゆる「商品」の取引は、〈物神〉を崇拝する人間によって等価交換だと見なされる。「商品」は古代文明から存在していたから、「商品」そのものに資本制社会の秘密はない。資本制社会の独自性は、人間の労働力を「商品」として宣言し、他者の剰余労働の搾取を「等価交換」の外観の下で遂行するところにある。労働者を支配しているのは原理的には資本家ではなく、パンや衣服といった生活のための「商品」を確保する必要性であり、それが「貨幣」への従属として、すなわち賃金をもたらす資本家への従属として現象するに過ぎない。人間を真に支配しているのは〈物神〉である。こうして資本制社会では、人間支配の構造が「等価交換」の外観によって隠蔽され、そのなかで〈物神〉は人間への支配力をさらに高めていく。

 このような過程こそが『資本論』の内容である。そのなかで、ヘーゲルにおける精神の高次の自己運動は〈物神〉の自己運動として、精神の低次の自己運動は人間の「物神崇拝」として、それぞれ批判的に継承されている。すなわち、資本制社会はあくまでも人間の「物神崇拝」という運動によって成立しているが、その成立の仕組みが隠蔽されることによって、まるで〈物神〉が自己運動しているかのように人間意識に現象するのである。

(2) 「関係」に解体された歴史法則

 ヘーゲルは、歴史を法則あるものとして捉え、その法則を精神の弁証法だとした。すなわち、歴史を動かす力の正体は精神の自己運動だと言うのである。これに対してマルクスは、歴史の法則性という考え方を継承しつつも、その法則が精神の弁証法であることは否定した。

 マルクスが歴史を動かす力の正体として見出したのは、「関係する」という人間の本性である。たとえば、人間は土地と関係することで、「農地」と「生産物」を生みだし、自らは「農民」となる。あるいは、人間と人間とが関係することで、社会的な生産が可能となり、それぞれの人間はその関係のなかで規定された社会的存在となっていく。社会的な生産は、直接的な協働によって遂行されることもあるし、生産物の交換に依存した間接的な協働によって遂行されることもある。以上のような「関係する」ということの強度と形式を表現する言葉が、「生産諸力」と「生産関係」である。

 マルクスの歴史観は、一般的に「弁証法」として理解されている。共産制よりも前の段階にある社会は、生産力の発展にともなって、その社会を成立させている生産関係に適合しない人間関係を必然的に生みだす。社会は自らの否定を生みだし、その止揚として次なる段階の社会へと歴史が進む。このように、社会の自己運動として歴史を捉えるのが、いわゆる「弁証法的唯物論」だと思われる。

 しかしそれは、資本制社会を〈物神〉の自己運動として捉えるのと同じ誤りである。たしかに資本制社会の内部にいる人間からはそれが〈物神〉の自己運動のように見えるが、その現象が人間による物神崇拝の産物に過ぎないことは『資本論』で示されている。高次の自己運動を成立させている低次の自己運動を見出すことこそ、マルクスがヘーゲルから批判的に継承した眼光ではなかったか。

 だとすれば、社会の弁証法的な自己運動は、あくまで歴史の外観に過ぎない。そのような弁証法的展開の実質は、まず人間が「関係する」ことの総体として特定の社会形式が存立することであり、加えて人間が「関係する」仕方が変化することで総体としての社会形式が変化することである。資本制社会における〈物神〉の自己運動が、人間が「関係する」仕方によって生みだされた虚像であるように、歴史における社会の自己運動も、人間が「関係する」ことの総体に過ぎない社会が概念として実体化されたときに生じる虚像である。

 だからマルクスの歴史観は、人間を超えた法則性によって人間が支配されている、という決定論では断じてない。むしろ、人間が「関係する」ことこそが歴史を動かしているのだ、というものである。だからこそ「万国の労働者よ、団結せよ!」という文句が成立する。労働者たちが団結することは、資本制社会の純粋な形式からは発生しない「関係する」仕方であり、資本制社会を乗り越える足場となる。歴史は、社会の弁証法的な自己運動などではなく、人間が「関係する」仕方を自ら変化させることによって動いていく。

 ヘーゲルが「認識」そのものを運動 = 過程に解体したように、マルクスは「社会」そのものを運動 = 過程に解体した。認識や社会は、それらが変化するときにだけ運動しているように見えるが、それらがそれらとして成立している状態すらも運動なのである。だから「認識」や「社会」は、存在しているのではなく、存立している。すべては人間が「関係する」ということに依存して存立しているのである。こうして、ヘーゲルとマルクスは、社会の存立構造を捉えるための眼光を我々にもたらした。


5. 社会の存立構造を捉えるために

〔承前〕前項ですでにあきらかなように、社会構造の「法則的」な認識に先立つ問いとしての、社会の存立構造論の課題は、現代社会の客観的な構造を構成するさまざまな社会的物象形態を、その存在の真理としての諸関係、諸過程にまで流動化することをとおして、これらを歴史的総体の諸契機として把握しなおすことにある。

真木悠介『現代社会の存立構造』

 「認識」は過程である。「商品」は過程である。「資本制社会」はそれ自体ですでに過程である。あらゆる社会的物象形態を、人間が「関係する」という過程にまで流動化して把握することを通してのみ、その社会の存立の構造は明らかになる。

 近代諸科学の分析的理性は基本的に、自然や社会の法則構造を見出そうとする。そこでは対象の存在が自明視され、個々の人間からは独立した客観的な存在としての「自然」や「社会」が分析される。そのため、その営みは対象の存在を問い直すことがない。分析的理性にとって、社会は自明な存在物である。

 しかし、社会は存在するものではなく、存立するものである。分析的理性ではなく弁証法的理性によって、社会の存在の自明性というヴェールが剥ぎ取られ、関係という存立の原理にまで遡って把握されなおすときに、初めて社会が総体的に変革可能なものとして我々の意識に現象する。すなわち、あらゆる社会変革の理論は、それが社会の総体をひっくり返そうとするかぎり、社会の存立構造論によって根拠づけられなければならない。

 我々が継承すべきは、ヘーゲルやマルクスが残したテクストそのものではなく、彼らの思考方法である弁証法的理性、すなわち社会的物象形態を「関係」にまで流動化する眼光である。社会の存立構造を明らかにすることを通して社会の変革可能性を提示することこそ、社会学者の果たすべき使命だと、私は考える。



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