見出し画像

月記(2021.03)

2021年3月1日21時。心臓の鼓動音だけが聞こえていた。

RAYの体制変更、クロスノエシスうお座組の生誕、気持ちがぐわんぐわんとうねっているところに、ロンギヌスの槍を一撃ぶちこまれたかのような、僕の「核」的なものがビリビリと震える、静かで深い衝撃だった。

Maison book girlの登場は僕の人生における一大トピックスであり、僕のアイドル史の紀元である。紀元前、テレビから流れるSMAP、Kinki Kids、モーニング娘。の曲を聴く日々を過ごすなか、あるときにバンドを志すというひとつの「目覚め」を迎えた。サブカルメガネオタクとしての自意識を醸成していったことにより、AKB48が隆盛するころには、謎の批判的態度をとるようになっていた。「AKBでいったらどの子がタイプ?」という質問がめちゃくちゃに嫌いだった。当時好んで著作を読んでいた評論家がAKBを高く評価する意味も、うまく理解できなかった。(ただ、今となっては、AKB系列の知識が足りないことは大きな損失だと感じているのだが。)それからすこしして、ナードメガネポストロッカーとして活動していた僕の耳に「ハイスイノナサのギタリスト・照井順政がアイドルグループをプロデュースする」というニュースが飛び込んできた。「楽曲派アイドル」という言葉を知ったのもこのあたりだった気がする。アイドル流行ってるんだな、と思っていた。当時の僕が今の僕を見たら、どう感じるのだろうか。



クロスノエシス LAKE生誕祭「湖の畔」。生誕パートでずっと泣いていた。曲中のLAKEさんは、まるで無敵の舞台役者のように見える。だけども、「seed」を歌い上げた後にサイリウムの灯りを眺める彼女の表情は、それとはまた違う優しさに満ちていたように見えた。特典会で撮影係のプロデューサーの顔を見た瞬間、「LAKEさんを入れてくれてありがとうございます」という言葉が口をついて出た。そういう瞬発力は本人の前でこそ発揮したほうがいいし、なんならこの会話が本人にも聞こえていたのか、肝心の会話自体がだいぶ恥ずかしい感じになって終わった。年々、特典会が下手くそになっている気がする。



「推し、燃ゆ。」を読んだ。アイドルやオタクの描写がどうという以前に、文体が新鮮で、ついそちらに意識がいってしまった。ある意味「オタク特有の早口/長文」というものを表しているのかもしれない。単に僕の文学的素養が足りなくて新鮮みを感じている可能性は否めないが。

リリスリバースのアサギさんがツイキャスでこの本に触れていた。気にはなっているが未読、そしてなんとなく気が進まない理由として、「『推し』という言葉はファン側が使うものであって、プロモーションする側が使っていると違和感を感じてしまう(意訳)」という話をしていた。僕は聴きながら静かに頷いていた。コメントするのはなんかまだ恥ずかしい。恥ずかしいってなんだ。

「推し」という言葉について、僕はシンプルに苦手であると同時に、とても興味深いと考えている。「オタク」という言葉がガワだけ変わらず変質し続けていったように、今「推し」という言葉が扱われるとき、そこには幾重もの誤解が生じざるを得なくなっているのではないだろうか。こうした現象をいびつだと感じると同時に、素手でかき分けて解き明かしてやりたいとも思ってしまう。これは、僕の性癖なのかもしれない。ちなみにこんな具合なので、「誰推しなんですか?」という頻出問題が何気なく提示されるたび、僕はうまく喋れなくなる。その節はご迷惑をおかけしました。

余談だが、「オタク」は免罪符ではないと考えている。でも、もしかしたら、これまでのライブアイドル界隈の流れを考えたら、僕のほうが潔癖すぎるのかもしれない。



間宮まにさんと井上唯さんのトークを見た。バカ笑いした。抽選でプリクラが当たったときの反応を思い切りいじられた。バカ笑いした。井上唯さんから、とても嬉しい言葉を頂いてしまった。頑張ろうと思った。



エヴァンゲリオンが終わった。思わずnoteを書いてしまった。月記をノルマとして課すことで、何かしらのトピックについて記事を書く準備運動をしておこう、という目論見がようやく形になった。もっとしっかり書けるようになりたい。読んでいただけると喜びます。



Maison book girlのライブを見た。彼女たちはあまりにもMaison book girlだった。声が出せないライブハウスに響き渡った「townscape」間奏の手拍子は、まるで祝祭のようだった。

4月、再び彼女たちのワンマンライブが見れるという実感は、まだない。



上田麗奈 1st Live 「Imagination Colors」を見た。凄まじかった。当初は会場キャパも異なり、配信もされない予定だった。この社会情勢によって図らずも、より大きなホールで、映像としてのクオリティも加味した演出となった側面もあるだろう。舞台上のセットこそ巨大であるが、そこに立つのは上田麗奈ただひとり。しかも多くの曲ではステージ中央のマイクスタンド前から動くことはない。わかりやすい振付もない。その代わりに、声、表情、目線、指先の微かな動き、全てに意味が宿っているように見えてしまうほど、その佇まいから儚さと鋭さが混じった「何か」が放たれ続けていた。上田麗奈という個人のタレント性を見せつつ、役者としての能力はスポイルせず、ライブパフォーマンスという形式で相乗効果を生み出す。考えてみたら当たり前なことかもしれないが、当たり前の理想を達成できる人が、世にどれだけいるだろうか。映像作品化されたとしたら、迷わずお金を出したいと思える、素晴らしいライブだった。

そういえば、「声優アーティスト」という表現がある。「アイドル声優」という表現もある。この辺の言葉も、僕の性癖に引っかかってくる。余談であるし、この話をするには知識のアップデートが必要だ。



RAYの三人体制お披露目。色んな思いがあったものの、「レジグナチオン」を聴いていたら、突然視界が開けたような感覚になった。

「今をただ生きているだけ」という歌詞は、きっとこれからも様々な色で聴こえてくるのだろう。



「新写真論」という本を少しずつ読んでいる。カメラを手に入れて2年ほど経った。そもそもがMaison book girlのリリースイベントで、スマホより綺麗な写真を撮りたいという動機で始めたものだった。その後、アイドル界隈では撮影可能なライブもあることを知り、そこからなんやかんやでライブ撮影を続けている。ちなみに、日常生活でもカメラは持ち歩いており、何かしら撮っている。「撮る」という行為と、それによって出来上がる「写真」という結果、そのメカニズムを体験することが新鮮で面白かった。だが、いい加減2年もやっていると徐々にその理屈もわかってくるし、無邪気に新鮮さだけを楽しむことで満足できないところに来てしまっている感覚がある。「なぜ写真を撮るのか」というところを、自分なりに少し考えたほうがいい気がしている。別に小難しく考えなくても、なんとなく続けることはできるだろうが、ずっとボケたままの「なんとなく」と、一度ピントを合わせたあとの「なんとなく」なら、後者のほうが長く続くような気がする。趣味は多いほうが楽しいし、長く続くほうが、長く楽しくて、いいと思う。

オタクの用事ついでに撮った写真を載せている、縛りプレイInstagram。よろしくお願いします。



一年前の三月、僕は本当に、わくわくしていた。

いろいろあったが、今年の三月も、またわくわくを届けてもらえるというのは、幸せなことだと思う。



内山結愛さんのディスクレビュー「向井秀徳さん特別編」がすごい。これまでの、音源に対する新鮮な感想を書く、というスタイルではなく、自伝なども参照したうえでガッツリと「読み解こう」という姿勢で書かれている。

個人的には、今の向井秀徳は改めて「歌」に回帰していると考えているので、内山さんには是非とも「すとーりーず」、ならびに現在ライブで披露されている新曲、再構築され続けている既存曲たちも聴いてみてほしいと思っている。



クロスノエシス&nuanceのツーマンツアー「haru」。ここまでがっちりコラボをしてくれると清々しい。クロスノエシスは寄りで見ても圧があってよいが、引きで見ても振付がドラマチックに見えてよい。これはワンマンS席がご用意されなかったこと対する負け惜しみではない。



・今月あたらしく知った音楽


・今月なつかしんだ音楽