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「着たいものを着ればいい。」というポジショントークに辟易する。〜おしゃれは定義できる〜

ファッションとは常に、その時代を映し、自分の内面をも映し出す鏡です。

では、今のファッションはどのような時代を反映し、個人に落とし込まれているのでしょうか…?

一言で表すなら「多様性」だと思います。

僕自身、あらゆる事においてボーダーは無ければ無いほど良いと思います。

しかし、ファッションの持つ"アート性"にフォーカスした時、いまのファッションシーンから垣間見える「多様性」の捉えられ方に対して、

そこまで相対性を排除し、絶対性(個人の自由)のみを是としていいものなのか。              そういったスタンスで発言される「着たいものを着ればいい。」は資本主義における売り手のポジショントークではないのか。

という懐疑的な考えが生まれました。


SNSでのマーケティングが主流になりつつある昨今、

ファッションの歴史的プロセスを軽視して
「なんかかっこいい」「楽しんだもん勝ち」
を盾に行われる一部のインフルエンサーマーケティングは、情報が閉ざされていた時代と同じような、"情報の非対称性"マーケティングを、ある意味助長しているように思えてしまうのです。
(定期的に炎上するインフルエンサーの落ち度もそこにあると思っています。)


このような現状がある中で、
なぜ僕がファッションの持つアート性にフォーカスし重要視するのかをお話しすると、

そもそもファッションは、心を動かす"アート性"とあらゆる機能を含む"デザイン性"の二つの要素で構成されていると考えており、

ミリタリーやワークなどの進化と共に、その機能的必然性を具現化し続けるデザイン性の発展(既に飽和しつつある)は、イデオロギー的役割を持ちながら最終的にアート性へと昇華していくものだと考えるからです。
(例えば、ワークの持つ反骨的イメージやミリタリーの持つ規律的イメージが独立し、それを意図した新しい表現へと繋がる。)


そして、そもそもアートとは歴史的起源を持ちイデオロギー的役割を持つものだという定義が主流です。
※ここでいうイデオロギーは階級、人種、ジェンダー、富、その他の権力の構造といった概念と関係する隠された仮定のこと。

この定義は、"論理的に"説明できない芸術と非芸術の境界を"イデオロギー的に"は説明できるという有名なものです。

では、これをファッションに当てはめて考えると、
ファッションにおける芸術も"論理的に"ではなく"イデオロギー的に"説明すべきだと言えると思います。

つまり、(全く新しいコンセプトのファインアート的ファッションである場合を除き)
ファッションの持つアート性(≒おしゃれ)は歴史的起源とイデオロギー的側面を用いて評論するしかないということです。


ここまでの説明を踏まえ、
ファッション業界に身を置く僕たちが取るべきスタンスは、
知識を流布させることをマウンティングとは捉えず、ファッションの持つアート性とその面白さを真に共有することで、ファッションの更なる発展に貢献する。
だと思います。

今の時代でいうのならば、
「多様性」
→×無法な自由
→○ジェンダーレスやミックススタイルなど

そして、そこにどんなバランスや化学反応が生じるのか…?

このように言及してこそだと思います。
デザイナーさんの美学もそこに詰まっているはずです。


ただ、すべてを知っているキュレーターなんて僕を含めて一人もいません。
新しいファッションに出会った時、パッと見ただけでは、わからなくて当然です。

わからないからこそファッションと向きあい、その中に「世界の捉える方法がどのように独自に構成されているのか」を探ってみる。

それこそが、「服を選ぶ」経験であり、その時間の中で(部分的ではあっても)そのファッションの構造が把握される瞬間がやってくる。

これこそが、"ファッションというコミュニケーション"の真の経験、醍醐味ではないでしょうか?


僕はそんな経験を与えるためにも服を通して皆さんと関わっていきたいと思っています。

皆さんもデザイナーさんの想いや意図を感じられた方がより愛着が湧くと思いませんか?

一見バラバラに見えるアイテム類が実は神経衰弱のようにバックボーンで繋がっていたら組み合わせるのが楽しいと思いませんか?

そんな新しい感動を一緒に共有できたら嬉しいですし、そこで生まれたシンパシーは人と人との繋がりをも深めてくれると思います^^

では、
いつか一緒に服を選ぶ日まで✋

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