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山紫陽花|花と結ぶ、夢と奇跡を叶えるちいさな契約関係

以前日記で、初めて鉢で育てていた花を切って生けたときのことを書きました。そのとき私は、紫陽花を生けることを考えていない、と書いています。けれど今朝布団の中で目が覚めて、「紫陽花を生けたい」と思いました。先日生けたクチナシは、寿命が来ていました。

寝ているのが好きで、本当に、いつまでも寝ていられるのなら寝ていたいと思う(仕事をしたくないから寝ているのか、寝るのが好きだから寝ているのか、多分両方ですね)。それくらい私は寝ることが好きなのですが、今朝「紫陽花を生けたい」と思ったら、「起きて、水をあげなければ」と思いました。

それまでは、毎日草花たちを世話して観察していると言っても、世話する時間はまちまちでその日のなかで決まった時間というのはなく、気づいたときに水をあげ、気づいたときに眺めていました。それがお昼のときもあれば夜中のときもありました。

クチナシを切花にすることに躊躇があったのは、命を奪うことへの躊躇だったのかもしれないと思います。一度花芽を切ってしまうと、もうその枝に花芽はつきません。そんな選択を私がしてもよいのかと竦んだのだと思います。けれど、きちんと考えてみればその考えこそが傲慢だったのではないかと思ったのです。それは、私がクチナシの命を左右できるかのような権力者のような考えで、実際の私とクチナシの関係は、もっとウィンーウィンなのではないでしょうか?

つまり、考えてみたのです。私は草花たちに水をあげて世話をするかわりに、数日おきに、咲かせた花をいただいている。私は花をいただくのだから、その義務を果たす。適当な時間に私の都合と気分で世話をするのではなく、毎朝一番いい時間に(朝露が見れるととても綺麗)見に行く。花瓶の水は毎日変えて、毎日水切りをして整える。花瓶は皆が揃うダイニングテーブルの真ん中におく。そうすると、皆でその姿を見ることができる。毎朝ジョウロと切狭を持って挨拶に行く──。そう考えると、いままでなんとなく流行り言葉のように見えていた「共存」の言葉が、手触りを持ち始めてきたような気がしました。

私は契約という言葉が好きです。契約を嫌いだという人もいますよね。「契約に縛られたくないから結婚はしない」と言っていた友人もいます。その意図するところはわかる気がします。けれど、「契約がなければ可能にしなかったものを、可能にするのが契約」なのだとしたら、契約によって可能となるものは「ニセモノ」なのでしょうか?

最近『魔法少女まどか☆マギカ』を見直しました。2011年に大学生になった私からすると、まさに世代で、大きな衝撃を与えてくれたアニメです。「僕と契約して、魔法少女になってよ!」という有名なセリフのもと、契約によって魔法少女になった彼女らは、夢と奇跡を叶える少女になるのです。私は小さい頃から魔法や奇跡の出てくるファンタジー小説が好きでした。「奇跡も、魔法も、あるんだよ」。紫陽花の花を切り、一輪挿しにしてうきうきしている私は、ささやかな契約をこの花たちと結んだのです。



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