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私と池田大作〜幹部とのオンライン懇談にて

ここ数日、ウクライナ情勢について何本か書き殴ってきた

で、昨日真ん中の記事に乗せた「嘆願書」出そうとした意図について、付き合い長い総区幹部と総区青年部長とオンライン懇談した

創価学会は「師弟」を重要視している
弟子は師匠に決意や結果をもって報告するという文化だ
これは師匠に「安心してください。あなたの仕事は私たちが引き継ぎます」との意思表明だ

これは日蓮とその弟子の日興、また牧口ー戸田、戸田ー池田の師弟関係においても同じだ。
その流れを創価学会の活動家達は汲んでいる。

創価学会における師弟関係の峻厳さ

なぜいきなりこんな話をするかと言うと、「池田先生にお願いをするのは弟子の姿勢としてどうなのか?」と問い質されたからだ。

池田名誉会長は2010年6月4日の本部幹部会にて、表舞台から身を引くことを名言し「これからは弟子の時代だ」と遺された。

その一方で、不定期に聖教新聞へ寄稿したりメンバーへの激励を行ったりしている。SGI提言も毎年出している。

この時代において弟子の在り方としては「お願いするのではなく、弟子に全て託されているのだから決意や結果をもって報告すべきだ。いつまでも師匠を頼ってはいけない」という考え方が活動家の間では共有されている

その反面、会合開催に際しては先生への出席依頼を行っている。それに対して先生はメッセージやご伝言、参加者への激励品の贈呈などで応えている。

だからお願いする文化自体は残っている。
というか慣習的にそうしないといけない雰囲気がある。

私自身も2010年6月4日以降に、創大学生寮の卒寮式への出席依頼を、実行委員長としてしたことがある。
当時副寮長だった私は寮長陣からボコボコに詰められたのはいい思い出だ。
先生がどの会合にも出られてない今、卒寮式に先生をお呼びすることがどういうことなのか分かってるのか!!
そんなやり取りを深夜の滝山寮の小仏間で何度繰り返したことか。

まあ自分も寮長になって「先生が会合に出られない今、先生をお呼びすること、実行委員の皆でちゃんと話し合った?」とは確認したけど笑
当時の副寮長陣はとても優秀だったので、一言言えばハッと気づいてくれて、改めて実行委員内で話し合いの場を設けて出直してくれたので助かりましたよほんと。
自分は物分り悪いので、当時の寮長陣を中々納得させることができなくて苦労したw

もちろんこれは組織の中枢にいる人間同士だからおこるやり取りであって、日常の学会活動の現場ではそんなガチ詰めなんて滅多に見られない。

ただ、「弟子は師匠に決意や結果をもって報告する」というのが学会の活動家の間での常識(らしい)だ。


武士の世の主君と仕える者の関係

だから今回の嘆願書について「決意や結果を報告するのはわかるけど、お願いするのは違うんじゃない?」と諭された。

そのやり取りを繰り返す内にふと、中世日本では主君に忠言を行うことはそれと引き換えに首を差し出すことと同義だということな思い浮かんだ。

再掲するが、この嘆願書は池田大作への忠言として書いたのだ。

その結果自分がどうなろうが関係ない。
今このタイミングで先生がリアクションを起こさないと、これまで先生が積み上げられてきた平和への活動が全て否定されてしまいます。あなたの人生の汚点になりますよ
そういう思いで嘆願書を認めたのだ。

区のLINEにその内容を投げたのは「じゃあ忠言してくるわ。あとはよろしく」てなノリだったんだなあと。

別に大河ドラマとか時代劇とか見ないけど、自分は時たまそんな腹の括り方をする。
それは学会の中だけではなくて、職場とか友人関係でもそうだ。

「これを言ってクビになってもしゃーない」
「これ言って絶縁されてもしゃーない」

それでも自分の良心に従いリスクを考慮した上で、それでも言わなければならない。
自分はそういう人間なのだ。
本当に世渡りベタだし周りには迷惑だなあと思う。

こうしてnoteのアカウント作ったのもその流れはある。お金になんないし時間と労力ばかり割かれるし何の得もない。
でも、この時代に生きている創価学会員が何を考え動いていたか。

そのログを残して後世の分析・調査に役立ててもらえれば(まあ内容的に役立てられそうなデータになってるかは知らないw)と。

池田大作との出会い

自分と池田大作との出会いは小学3年生まで遡る。

みなもと太郎先生の「人類みんな十界論」を小学1年生の時に読み感化された私は、辛いことがあると祈るようになっていた。
祈って仏界の生命を引き出して現実世界で戦ってまた御本尊の前に座り仏界の生命を引き出す。

これ最強やん。小学校生活に馴染めなかった(外から見ると普通に元気に過ごしてる)私にとって、決めて祈って行動する一連の流れは、まさに「ぼくのかんがえたさいきょうのたたかいかた」だった。

母親に「辛い時は祈ったらいいよ」と言われたことと、母や祖父が祈ってる姿を見ていたことで自分もそうしてみただけだ。

だから今でもみなもと太郎先生には感謝している(今更ながらご冥福をお祈りします。みなもと太郎先生の追悼記事書こうと思ったけど無理でした)。

池田大作という存在を認知したのは小学3年生の時だ。

辺鄙な寒村生まれの人ならわかると思うが、うちは母屋と離れがある。
母屋には祖父母の部屋と仏間、水周りがあり、両親と子どもは離れで暮らしていた。
その離れが平屋で手狭だったので、取り壊し新たに2階建ての新居を父親が建てた。

水周りは母屋にあるから純粋に部屋だけだ(倉庫もある)。父親が電気系の資格あらかた持っていたため、電気周りは父親が工事したので普通に家建てるよりは安く済んだらしい(あとなぜか1階だけ断熱材つけてないw)。

で、弟との2人部屋を与えられ勉強机も新しくなった。その本棚に(多分母親が置いた)希望対話という冊子があった。

昨日対話は池田名誉会長と未来部幹部が小学生からの質問をテーマに懇談形式で答えていく形で話が進められる。

自分はよく学校の図書館で本を借りていたが、物足りなさを感じていた。それは辺鄙な寒村にありがちな、文化資本の少なさであり、ロールモデル不在も関係していたのではないかと思う。

そんな中手に取った希望対話を読みめちゃくちゃ驚いた。
小学生の悩みに対して小学生にわかる言葉で小学生に真正面から向き合って質問を受け止め一大人の意見を述べてくれる。
そんな人には出会ったことがなかった。
衝撃を受けた。

その後も本を読み続けてきたけど、同じような感想を抱く方は寡聞にして見つからなかった。小学生向けのそういう本ってどこか小学生扱いしてるのを敏感に感じ取ってしまっていた。

しかし、私にとっての希望対話はそうでなかった。

中高生向けの青春対話を下宿していた地区の婦人部の方からいただいた時も同じ衝撃を受けた。


自分は悩みや苦しみを相談しても誰からも理解や共感してもらえなかった。
してもらえないから割り切って楽しく生きていこうとしていた。実際楽しんでいたと思う。
でも心は死んでいた。

そんな時に出会った希望対話と青春対話の2冊が私に与えた影響は計り知れない。
みなもと太郎先生がわかりやすく漫画で示してくださった仏法の世界を、実生活でどのように活かしていけばいいか小学生の私に教えてくれたのは池田先生だった。
自分の悩みに寄り添ってくれるのは池田大作だけだった。

行き詰まる事に祈り、青春対話を読み、また祈り行動していく。このサイクルで苦境を何度も何度も乗り越えてきた。
心の危機を何度も乗り越えてこれた。
それによってたくさんの友人ができたし、自分ひとりでは見ることのできなかった世界を見せて貰えた。

だから自分の人生は、仏法と池田大作なしには語れない。
自己形成に仏法と池田大作の思想が不可分に根付いていると言っても過言ではない。

私と池田大作

創価大学に進学して初めて同世代の学会員と接して驚くことがたくさんあった。
先生先生と連呼してる人もいたし、学会批判バリバリする人もいたし、学園生上がりで池田先生・信心マウントをとってくる人(こいつらなんなんと未だに思う)もいた。

学生部活動も馴染めなかったが割と拠点が近かったので参加だけはしていた。
御書講義が好きだったからだ。


下宿時代に参加した座談会が好きで、その時聞いた「阿仏坊さながら宝塔、宝塔さながら阿仏坊」とか「冬は必ず春となる」は初めて触れた御書として印象に残っている。

中学時代にも大白蓮華読んでたけど、そこまで感銘を受けなかったが、座談会の御書講義は毎回感銘を受けた。今思えばその地区凄かったなあと思う。


そういう訳で御書講義聞くために学生部活動に参加していた。一人一言とかはかったるかったし、「今から10分間電話闘争です(意味:友人に電話して会う約束取りましょう)」の時は無視してお題目上げてた。
当時は折伏に全く興味なかったし。

寮でも学生部でも大学でも、至る所で「先生先生!」と聞くけど、自分と同じような感覚で語り合える人はそんなにいなかった。
まあ小学生上がってからずっと、自分の生と死について、悩み苦しんでいる人が大学まで上がってくることってなかなかないもんなーって今となっては理解できる。

実際そういう人達に多く出逢えたのは、社会人になって仕事辞めて障害福祉サービス受けることになってからだった。
学会員や創大生よりも話や価値観が合うから楽しかった。

だから創大生や高校までの友人とは距離置いてるけど、障害福祉サービス受けてからできた友人は今でも定期的に会っている。
身体障害者と共にNPOで活動もしてるけど、そっちの人たちの方が話が合う。

元々創価大学に対するイメージは「池田先生が建てたけど、学生の質はめちゃくちゃ低いでしょw」くらいにしか思ってなかった。
だからいい意味で期待を裏切られた。
尊敬する人も沢山できた。

でも結局全てを洗いざらい話せるのは池田大作だけだなぁと。
別にそれが悪いことではない。

自立とは依存先を増やすこと
脳性麻痺の東大准教授である熊谷晋一郎の言葉だ。

全てを洗いざらい話せなくても、なにか共通する話題ひとつで繋がれる人を多く持てばいい。関係性が長く続かなくても、その時その時でいい人が見つかる。

そういう考え方にシフトできたからこそ、小学生以来の悩み苦しみから解放され始めた。


現実世界ではそういう風に生きてきた。
だけど内面世界は仏法と池田大作との繋がりでできている。
だから創大時代はことある事に報告文をお出ししたし、卒業後もそれは続いた。

池田大作には全てを話してるし、激励品を通してレスポンスももらえてる。
ただ、私の中では池田大作は死んだことになっている。第一線を退いたからだ。だから聖教新聞でたまに写真や記事が出てるのを見るのは池田大作の人生のロスタイムを見てる気分だ。

これらの経緯を端折って区のLINEに投げたら波紋を呼ぶよねw

嘆願文は自分と池田大作の2人で積み重ねてきた対話の続きで認めたものだ。
だから説明文をごっそり削って簡潔なものになっている。

それを区のLINEに投げたら周りは「大丈夫かこいつ」てなるよねw
大丈夫です。平常運転です。社会性がないだけで。

まあただ、今回のオンライン懇談で自分と池田大作のふたりの世界から物事を考え行動していることに気づかなかったのは社会で生きていく上では気をつけないとなあと自戒する。
次からは全体に投げる前に相談しますはい。

まあ全体に投げることなんてもうないだろうけど。

総区青年部長はひとつひとつ確認していった上で、全部わかった上でそれでも師匠にお願いしてるとまでは思わなかったと。
まああの文だけでそこまで読み取れたら最早エスパーだよw
色々すっ飛ばしてすみませんお手数おかけしました。

全ては池田大作との1対1の関係性の出来事だからほんとに申し訳ない。ただ、こっちは池田大作の晩節を汚すことはさせたくなかったから、首跳ね覚悟で嘆願文出そうとしてたので、つい置き手紙を遺してしまいました。

まあ、志賀青年部長が声明出したから嘆願文一旦ストップしたけど。


今回の経緯はそういう経緯でした。
直近のふたつの記事はそういう心境で書いてるので「何言ってんだこいつ」となってるかと思いますw
貴重な狂信者の記録なので有効活用してくださいwww

まあでも池田大作は師匠とか先生とか、そういう感じじゃなくて全てを洗いざらい話すことのできる存在であり、悩んだり迷ったりした時に道を示唆してくれるロールモデルって感じなんだよなー。
まあそれを師匠というのかもしれないけれど、個人的にはあんましっくりこない。

どっちかと言うと人生の安全弁て感じかなー。
まあこれをどう捉えるかは人によるだろうどさ。