私は祈る。神は存在しないと思いながら

Twitterでフォローしてる方が引用RTされてるのを見て深く共感した。

自分が無我夢中で祈ってた時は
「失恋・義憤・怨念」のどれかだった。

小2の時に怒りと恨みで祈り始め、大学2,3年次と仕事辞めたタイミングで失恋した時は心が裂けそうでひたぶる祈った。というか祈らなかったら死に抗えなかった。

大学生の時なんか1年強引きずった。
そのせいか、気づけば7ヶ月で100万遍唱題30人折伏していた。
それでも振り切れず、さらに体調不良が重なり4ヶ月で100万遍唱題30人折伏(述べ60人)やっちまった。
周りはひどく迷惑だったと思うが、自分があの時死なないためにはそれしか方法がなかった。

まあ自分は元から「変人」扱いされてたし、あの時狂っていたので相手も察してくれているのか、今でも連絡すれば繋がるし、微妙な空気感は昔のままだ。

ただそんな無茶苦茶をしていたら身体が持たない。
3ヶ月間ずっと友人から「病院行け」と言われても頑なに拒否し、当たり散らかしてしまった。完全に心が壊れて解離性障害の症状が出ていた。

夏休み、通信教育学部のスクーリング生を寮で受け入れる運営本部を仕切ったあと、全く身体が動かなくなった。帰省してリフレッシュするも症状は変わらず、心療内科に通って服薬して落ち着いたという友人の話を聞き、ようやく心療内科の予約を取れた。

初診で即うつ病の診断がおり、「学業やプライベートの活動全てやめなさい」とまで言われた。ドクターストップだ。でも、誰かに止めてもらえたのが嬉しかった。休んでいいよと言われたのが嬉しかった。


仕事辞めたタイミングで失恋した時もキツかった。
失恋してすぐ相手は彼氏作ったんだけどその一週間後に「会えない?」と連絡来て、会って別れる直前に「彼氏過去に不倫してたんだよね…」と駅のホームに電車が着いたタイミングで言われたらそりゃもう期待しちゃいますやん?

結局復縁はできなかったけど、失恋のショックと恨みで8回くらい10時間唱題した。そうしないと生きてけなかった。

そのお陰か、いい精神保健福祉士や臨床心理士、主治医をはじめ、多くの信頼できる専門家や仲間に出会えて貴重な体験もできた。

今同棲している彼女は大学時代の友人で、卒業前に「10年後貴女に選んでもらえる人になります」と言って、いろんなことはあったけれど結果同棲している。彼女は元地方の本部職員だけれど、退職する時上司に「祈り負けたね」と言われたらしい。

徒然に書いてきたけどほぼ失恋でほんの少し怨念が入ってるだけじゃねーかと突っ込まれそうな内容だ。

ただ、小学校入学からつい数年前まで自分にとって理不尽な世界を常に相手にしなきゃいけなかった感覚に囚われていた。
それこそ、仕事辞めてしばらく経って「世界を敵と想定して戦っている」と指摘されるまで気がつかなかった。それこそ義憤の力だ。


だから人のために祈るとかってほんとすげーなと素直に思ってた。
大学2年の時の創大祭でハーバード大学の教授の講演を壇上で聞いた時のテーマが「小我を超えて大我に」だったが、その理論で自分を納得させていた。
「人間は自分のことしか考えられない。ただ、考えられる範囲を大きくしていけば結果的に他人や世界のことも自分のことのように考えられるようになる」という趣旨だったと記憶している。


ほんの2,3年前までは憤りを制御できずにいたが、賢く憤りをぶつけている人たちを様々な界隈で見つけ真似するようになってから、憤りに飲まれることが大きく減ったように感じる。
憤りをコントロールして対象に適切に対話の形で提案することで、同じような境遇で困っているが声をあげられない人の代弁ができるようになってきている。

人との出会いや主体的な学びなどによって後天的に得られた能力だが、正直めちゃくちゃ運が良かったと思ってる。
それこそ「祈りのおかげ」と言ってもいいんじゃないかと自分でも思う。
祈りも主体的な行動だから。


取り留めもない話をしたが、不平不満を周りにぶつけたり終わりのない議論をネット上でするのもいいけど、そんな暇あったら祈ればいいのにと思ってしまう自分はいる。
ネット上での議論なんか終わりないし。

自分には同苦なんかできないけれど、義憤はいくらだってある。だからそれを力に変えるために胸中唱題をしている。自分の中で義憤をプールするために祈っている。

誰かのために祈るんじゃない。自分のために祈るんだ。自分が祈るしかないから祈るんだ。

You're never walk alone.

この記事が参加している募集