「もののけ姫」かく語りき 暴力のオススメー網野善彦、石母田正そして藤野裕子ー(感想・批評)

「もののけ姫」かく語りき 暴力のオススメ:網野善彦、石母田正そして藤野裕子ー(歴史学の立場から「読んだ」、「もののけ姫」という「物語」)

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ(『聖書』「マタイによる福音書」10:34)
子貢問いて曰わく、郷人皆これを好まば何如。子曰わく、未だ可ならざるなり。郷人皆これを悪まば何如。子曰わく、未だ可ならざるなり。郷人の善き者はこれを好み、其の善からざる者はこれを悪くまんには如かざるなり。(『論語』)
既成の六法全書と基準として/革命を望むものは馬鹿者だ/革命とは/方法からして革命的でなければならぬはず(金洙暎「六法全書と革命」)
水に落ちた犬は打て(魯迅「「フェアプレイ」はまだ早い」)

 「もののけ姫」みた。小学生の頃、学校で見せられた時は、特に印象もなく、やや不気味だったことしか覚えてないが、これ、名作過ぎるな。学部1年生のとき、與那覇潤『中国化する日本』にも「もののけ姫」は、農民以外様々な庶民・多様な中世社会のあり方を研究した中世史家網野善彦の影響を受けたものとの言及があったり、交換留学のとき教社の下向井先生(広大生はほとんど知らないだろうが、むちゃくちゃ有名かつお優しい先生)の授業でも、「蕨手刀(わらびてとう)」(下に写真)の話で言及があった。そういえば、同じ授業で下向井先生がふと網野先生がご存命のときに大変かわいがってくださり…という話も思い出す。

 さて、「もののけ姫」は、素人(歴史学を専門としない人)からみると、ただ面白くて神秘なジブリ作品の一つとして観られるかもしれない。もちろんそれはそれでよいし、それだけでも十分いい作品だとも思う。しかし、この歳となって、この専攻を(とりわけ広大で)していたら、作品中に仕込まれている巧みな装置がいろいろ見えてくるのである。

 基本、作中に時代や空間の背景ははっきりとしないのである。しかし、おそらく、ほぼ間違いなく特定できよう。この時代が専門なわけでもなく、あくまで個人の推理ではあるが、大体南北朝時代前後であろう。舞台は東北あたりと、今の島根西部(出雲国)かと。それがなぜわかるのか。

 主人公のアシタカは、作中で自分の出自について「北と東の間」と言及している。そして村を出る前に、「大和に追われて500年」「今や将軍も折れた」「明国の火薬より~」などのセリフもある。力の強く、武に長けたアシタカというキャラ、途中で鉢合わせする「サムライ」とも無関係な人間で、そして「珍しいシシ」にのり、ほとんどが東北や北海道で出土される蕨手刀を用いることから、明らかにアシタカは東北出身の「蝦夷」である。彼らの村の有り方や、建物を見ても、なんとなく古い感じがする。近畿など発展地域と対比させたのであろう。そして彼は「西」へ向かい、途中で市場で米を買って、さらに森を超えてたたら村に辿り着く。おそらくその市場は今の京都な近畿の先進地域で、そこからさらに西へ行った。山陰地方は昔からたたら製鉄で有名な地方である。今も島根安来市には「和鋼博物館」がある(たたら製鉄場の女たちが踏むあの機械も体験できる)。

 イノシシを祟り神にしたてつぶ(弾)の出どころを探って、たたら村に辿りついている。これこそ辺境としての東北地方と、西の先進地域を対比させる装置だと思う。そして、その神々が集まったりする場所であることから、なんとなくやっぱ出雲ではないかなぁという憶測はした(ただし、「神無月」と「神在月」のネタは、「無」の意味の勘違いからきているものらしい。勘違いされて久しい歴史があるみたいだけど)。そして「大和朝廷」に属するようになった当該地域は、まさにエボシなどのたたらの集団によって「開発(かいほつ)」されているところであろう。そして、たたら村のなかでもかなり網野史学の影響を敢えて見出すのならば、ほとんど出てこない「瑞穂国」の農民の存在、男性に負けぬ活発な女性像、業病の人々など周縁的な存在や、孤立・自立的な形の村、自然や神秘な異界の存在などーそのような「中世的感覚」をさりげなく、現代人にしてくどい説明なく納得させる世界観の描き方も素晴らしいところといえようーがそれであろうか。

 ところで、僕はここで石母田正の陰も感じる。宮崎駿などスタッフが直接影響を受けたり、それをあえて意図したりしたわけじゃなくて、僕がそう解釈していることを断っておきたい。つまり、磯前順一が評しているように、石母田正は中世的勢力が古代的勢力に挑んでは敗れ、また挑んでは敗れるしたたかさを描き、その歴史像を当時の現実に重ね合わせてみていると。

 つまり、「古代的」(時代区分論を駆使しない精緻な言葉遣いでいうなら旧勢力というべいだろうか)な森の勢力と、「中世的」(てつぶ・石火矢などテクノロジーで象徴される「新」勢力。そしててつぶと石火矢、そしてゴンザの刀、たたら村の門を一人で開けてしまうなど、その新勢力を克服する能力・可能性・役割がアシタカに内在していることが仄めかされる)たたら村が両極端にある。アシタカもどちらかといえば前者ではあるが。

 ともあれ、この映画は決してそういった単純な二項対立の構図にはハマらない。まず、古代的勢力の論理についてもそれなりに正当性を示す。中世的勢力の論理についてもまたしかり。勝者と敗者の物語ではないのだ。両方が単に衝突するばかりではない。両者それぞれが強かに、一生懸命に、自分らなりに生きていく姿を、アシタカという辺境的(中間的?古代=旧勢力&人間より?)存在を登場させて描く視点は秀逸である。その中間的役割は、腕の問題を以て宿命となり、自分自身の切実な問題となりえたのだ。すべての物語のはじまりが、それなのである。オソロシイほどの蓋然性。そしてもののけ姫(サン)も、アシタカとは反対側での中間者ー旧勢力&動物寄りかつ神々(動物)でも人間でもないーの位置を占めており、両者の接触はまた必然的なこと。そしてその二人が近づけば、両勢力の葛藤が物語上で解消され、接着剤となるのである。そこに至るまでの叙事が、蓋然性に富んでおり、陳腐性はまったく帯びない(実はここまでいえば、もはや「構図」で説明できない、それぞれの戦いでもある)。エボシの病人や女性に対する優しさと度胸、その技術力。山犬と森とサンの苦しさとその世界。それを両方目にして、わかってしまったアシタカこそ、最初から接着剤になりえたのであり、だからこそ彼の唱える「共存する道はないか」という陳腐なテーゼは、陳腐に聞こえないのである(なお、そこには大和朝廷に抑えられるも、また「天長さま」を背負って森を征伐するエボシの勢力を理解するというアシタカのアイロニカルで中間者的要素があり、まさにその裏には「天長さま」とつながっている石火矢衆という悪役側の中間者の存在も想定されている)。石母田正の失敗を繰り返さないで、新しい勢力関係の構図を描くのだ。

 そして、かつて石母田正が古代・中世を現代に重ねてみていたように、もののけ姫という物語を現代とつなげてみるのであればーいや、必然的にそうであらざるをえないし、おそらくまったく隠されておらず、作品の全面に打ち出されている作者の意図もそこにあるだろうがー、自然環境や歴史問題・戦争責任がその背景に仕込んであるかのように、間接的に(しかしほぼ露骨に)視聴者にして感じさせる。すこし誇張していえば、「暴力はいけない」というテーゼを見直して(藤野裕子『民衆暴力』中央新書、2020年)、攻撃的・暴力的な被害者を、「優しい」加害者が批難するという問題。にもかかわらず、暴力やテロにでも、あたかも藁にすがるように頼りながら戦っていきてゆく、勝ち目のない誇らしい生き方を求める側を我々の目に映している。問いかけている。そうでありながらも(あるいは、そうであるからこそ)単なる二項対立の衝突ではなく、周縁的存在をところどころに登場させているのであろう。絶対的、純然たる善と悪を相対化し、たやすくて甘いわかりやすい解消ではなく、「これから」の課題自体を結末で示しているのではなかろうか。葛藤は終わった。しかし、実は何もはじまっちゃいない。だから、実は何も安易な結論は語っていない。登場人物とて、何もわかっていない。村は建て直せばならない。とりあえずアシタカもたたら村に住まねばならない。森もこれから再生していかねばならない。何も語っていないのだからこそ、何かを我々に語りかけてくる。絶対的善⇔悪の構図を否定しつつ、神仏(奇異)の世界と人間の世界を精巧に混淆させている世界観から、前向きの課題を示しているのだ。(奇異がまだ分離されていない世界からきたアシタカと、奇異をそっちのけにするたたらの世界はいい対比となる)

 何かを守るためにかけられた覚悟のうえの呪いは、また何かを守りながら、「(イノシシを殺した自らを真正面から顧みて)償いながら」、償うからこそ消えてゆくものである。アシタカの強かさはそこにある。単に我が村を守るのみ。共感が内部にしか向かない、そしてその一方外側には限りなく排他的であるといったナショナリズム的な形ではなく、どちらかの側に立たず、わかりやすさという罠にはまらず、不断に自らも相手をも相対化していき、別の集団の別の人たちに「平等」(仏教用語としての)に目を向けながら、もののけの姫と合一しながら呪いが消えていくということを仄めかすのである。そこに、作者の願望がこめられていると僕は理解している。


 実は、このような物語の構図は、「風の谷のナウシカ」にも同じく現れるといえよう。エボシと女王(名前忘れた)はかなり似ている。ナウシカも確か森と生物が大きい題材であった記憶がある。ナウシカは、(與那覇潤も指摘しているように)露骨に「王道楽土」と満州国を連想させる装置を置き、それから核戦争時代まで至る一連の課題を直接的な方法をとって我々に見せている。もののけ姫とは違って、作品全体の雰囲気が比較的西洋的なのは、それが原因であるかもしれない。

 森・山という空間は、環境破壊を端的に示しうるいい題材であるのみならず、そのなかの未知性や暗闇などからもたらされる神秘性を秘めている。だからこそ緊張と問題意識を喚起できる装置である。なお、あえてまた網野善彦決定論でいうのならば、網野自身も農民のみならず、海民など、農民以外一般的でない人々の姿を描こうとした歴史家だったので、もしかするとその影響もあったのかもしれない。山と直結して生きるたたらはちょうどもってこいの題材であったのだろう。

 「もののけ姫」は、アシタカの腕はもちろん、森はもちろん、ひいてはたたら村まで含む、大きい図における「再生」の物語である。それがナウシカなどで変奏・反復されるのである(もしかしたら、ハウルの結末も似た気がするけど、ハウルもそういえるかもしれない)。しかしそれは、決して退屈ではない。退屈であっても、それほど大事で切実な作者の願望だったのであろう。

 最期に一つ指摘しておきたいことがある(上で書き忘れて)。この映画に、「悪い人間」はいない。ジコ坊すら、最初はアシタカを案内したり、最後には結局蓋を開けるいい人間である。しかし、そこが重要だと思うのだ。人間がいい悪いは大事ない。いい人間どうし集まっても、いやそうだからこそ葛藤と問題と暴力が産まれるのである。そこを安逸に看過してはいけない。

 誰かを守るためにでも、暴力は必須不可欠である。安易な平和論は通じないという意味でもそうであるが、反対では「暴力はいけない」という大前提さえも実は自明なものではない。問題は何をどう守るかである。余儀なくされたとはいえ、アシタカは村のため祟り神を殺す。神々は森のため人間を襲う。エボシはたたら村の防衛と発展のために暴力を振るう。暴力は訴える手段である。アシタカの村は祟り神を殺しながらも、これで塚を作るので鎮まり給えと。

 これは日本特有の伝統的宗教観念(怨親平等)の反映でもあるが、実はアイロニカルなもので、祟り神(ナゴ)は死に際にも人間を呪いながら息を引き取る。アシタカも多少の罪悪感を示すかのような行動をとる。そして長老たちも村を守るためにアシタカを「追放」する(=アシタカ自ら髪を切る)。守る暴力どうしの衝突にもはや善も悪もない。誰がナゴを批難できよう。誰がアシタカを、誰がエボシを、誰がサンを批難できよう。問題は暴力の使い方と見つめ方である。アシタカが主人公である理由はそこにある。

 アシタカは見た目とは釣り合わぬすさまじい武力の持主として描かれる。しかしその暴力の化身のアシタカはエボシともサンともジコ坊とも、違う。暴力の本質を見極めている。使わないわけではない、しかし使ってはその自らの暴力を見つめ直す。そして専ら自分に向かってくる暴力には反撃しない。同時に、消して戦わないとは言わない。むしろ彼の足跡は闘いばかりである。安易にサンゴの見方をするわけでもない。サンゴも結末まですべてのものと和解したわけではない。

 彼の主人公たる所以はそこにある。例えば、政治家の暴言や威圧も暴力であれば、他方間違った政治に対するデモも一種の暴力である。つまり大きい暴力に対して、「暴力自体は悪いものだから排除しましょう」ということは、時折それこそもっとも大きい暴力になりかねるときさえある。問題は暴力自体ではない。暴力のあり方である。暴力をいかに考え、いかに見つめ、いかに使うか。究極はどちらも暴力を使わなくなる理想に辿り着くまで。「心優しい」という幻想を抱いて、ひたすらまったくの暴力を拒否することは、傍観でしかないのである。正当に怒る力は大切な賜物である。しかし、かといっていうまでもなく、もちろん暴力を全肯定して、野放しにしておけば、それは一番の問題である。暴力がいい、悪いという単純な構図は幻想である。暴力とは非常に複雑なものとして、(手段としての)善と悪の錯綜する場である。それは切り離せない裏腹をなしている。それをじっくり考えなければ、ただの野垂れ死にか、見殺しになる。「天長さま」を背負った輩によって―つまり国家権力に暴力を独占されてしまう―。結果、自分の身を守るため、皆を死なせてしまう。アシタカははじめから最後まで、ナゴにせよ森にせよ、暴力を振るうか振るわないかではなく、皆を死なせるか死なせないかだけを考えるものである。鉄砲衆の暴力も森の神の暴力もサンゴの暴力も防ごうとする。その過程でまた暴力を振るう。そこでメインテーマを表象する主人公たりうるのである。

 昨今、否、日本人がもっとも苦手なところ―現代日本の病理が、そして作者のそれに対する問題意識が、そこに見えてくる気がする。今、日本には守るための暴力が必要なのである。それが足りない気がする。「もののけ姫」を、俺はこう観た。今更ながら。

 一気に書き下ろしていってので、文がおかしいかもしれない。いずれ推敲しよう。多分めんどくさくてしないだろうけど。


(2021年2月5日ツイッタのスレッドを訳し、FBと同時掲載。2月6日最後の段落を付け足した→ものを、さらに前のブログから転載、2022年3月15日一部修正)

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