比較の「寂しさ」
「あれ、私って何が好きなんだっけ?」
日本語には綺麗な言葉が沢山?
小学生6年生の頃だったか、おそらくテレビで「花冷え」という言葉に出会った。花冷えとは桜が咲くころの寒の戻りを指す言葉だ。すなわち、桜が咲くほど暖かくなったのにもかかわらず、寒い状況を示している。
そんなことを母に話した。すると母は、
とどこか感慨深そうに私に語りかけた。その姿はさも彼女の思い出がいつも綺麗な日本語で彩られてきたかのようである。
絶対的な価値を認められない症候群
とはならなかった。語りかけられて、一番最初に思ったのは以下の通りだ。
今思えば愛想もクソもない感想である。ただ案外、このような性格は大きくなった今でも変わらないものだ。つまり、何かに対して「絶対的な価値」を認める個人の感情を素直には受け止めきれない。
言うなれば、それって単なる個人の感想ですよね?と口走りそうにということである。
相対的に潜む闇
私含め、もしかすると現代において価値というものは相対的でなければ認識しにくくなっているのではないか。
「あれよりも、これの方が面白い」といった漠然とした比較はもとより、再生数、閲覧数、採点結果といった基準で、物事の価値を判断する。
たとえば、お気に入りのラーメン店を考えてみる。その店は昔から何度も通い、自分の中では「1番」を与えたいような店だ。しかし、その店は飲食店のランキングサイトで低い評価を受けている。ともすると、お気に入りだったはずなのに、どこか自分の中でもそのラーメン店への評価を下げそうになってしまう。
「私の評価が間違っているのではないか」
なんて言う風に。
絶対的な価値を求めて
ただ実際は本人が「美味しい」と思うのなら、それでいいのだ。誰が何と言おうと、数値が大きかろうが小さかろうが関係ない。
ただ「絶対的に価値がある」と言い切るのには勇気がいる。なぜなら、「それって個人の感想ですよね」と相対性を振りかざしてマウンティングしてくる私のような輩が案外沢山いるからだ。
相対性ばかりに気を取られていると、いつかは「あれ、私って何が好きなんだっけ?」と自分という絶対的な軸を失ってしまう。こんなに寂しいことが他にあろうか。
だからこそ、ここは一つ誰が何と言おうが、この記事についても絶対的な価値を認めてみていきたい。
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妄信はよくないとはいえ、「自分だけは自分のことを信じ切る」ってすごい最近大切だなと思ったりします。
言い換えれば、根拠のない自信とかなんとかなりそう感とかですかね。
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