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ポスターの中のあの女優は誰を見ているのか?

他人の目線が私の不在を存在へと導いてくれているのかもしれません。

島とポスター

「街」には色とりどりのポスターがある。
おもちゃにゲーム、食品にイベントと、ポスターは何かを人に訴えかけようとしているのだろう。

島の人は時折、丸亀市の中心部のことを「街」と呼ぶ。丸亀市に属する離島ではあるが、島と街は全く違う世界だ。
もちろんこの街にもポスターが沢山ある。

移住前に過ごした大阪は丸亀よりも遥かにポスターに溢れていたのであろうが、全く気にはしていなかった。大阪のような大都市では色彩豊かなポスターはもはや景色の一部だ。

一方で、島にあるポスターと言えば、政治家の宣材くらいである。
写真の中の彼らもきっと何かを訴えているのだろうが、私の目には映らない。

すなわち、私にとって、島にはポスターなど存在しないに等しいのだ。

ポスターの中から

ポスターが溢れる丸亀の「街」を歩いていると、不意に誰かに覗き込まれる気分に襲われた。

人口180人の島では、一日誰ともすれ違わない日もあるので、他人に見られているという感覚は薄れつつある。

だからこそ、感じたままを言えば、ドキッとしたのである。

「街」とはいえ丸亀市の中心市街地も例外なく過疎化が進んでいるので、人通りは休日でもまばらだ。

つまり、私の顔を覗き込めるような距離に人などいない。

そのような状況で、違和感の先へ目をやると、化粧品のポスターの中からあの国民的女優がこちらを見ていたのである。

自分を見ているはずがない

当たり前だが、ポスターの中の女優は私のことなど見てはいない。

となると、彼女は誰を見ているのだろうか?

もしかしたら誰を見ているわけでもなく、ただファインダーに商店を合わせていたのかもしれない。

それとも、役に入りきるために特定の誰かを思い浮かべて、その人を頭の中で見つめていたのだろうか。

真相は分からない。
ただ、一つ言えるのは、

彼女は私など見てはいない。

見られているという自己欺瞞

見られていると感じるのは、おそらく自己欺瞞なのだろう。
もしくはどこかで「見られたい」と思っているか。

過疎地では、自分は他人を、他人は自分の姿を目にすることは少ない。

もちろん見えないところ心配をしてくれている意味では、「見られて」いるとは思う。

ただ網膜に映るという意味では、誰の目にも映らない日もある。

だからこそ、私はポスターの中のあの女優の目に映りたいと思ってしまったのではないか。

私はここにいるぞ、と言わんばかりに。

誰かに見られていなくても私は私として存在しているが、見られているという感覚がなければ私は私が存在していると思えない時もある。

つまり、他人の目が私の不在を存在へと昇華させるのである。

だからこそ、ポスターの中の女優が私に目で教えようとしたのは、そのような自身の不在を受け入れきれないという存在だったのかもしれない。

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さぬき広島のような超過疎地にいると、今まで自分が生まれ育ってきた日常が非日常になっていきます。

というわけで、本日はこれにて!
お読みいただきましてありがとうございました!

また明日も宜しくお願いします!

※ちなみにポスターの中のあの女優とは、吉岡里帆さんでした。

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