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文章は「欠け」ても「書け」ない

文章は文字を増やすよりも、減らす方が難しい。

古い新聞は小さく、多い

先日、近所の人から古いお皿やカップをもらった。丁寧に保存されていたのか、一つ一つが新聞紙にくるまれている。

その新聞紙の発行年月日を見てみると、1992年3月15日とあった。1995年生まれの私からすれば、目の前の新聞紙の方が年上である。

そして何よりも昔の新聞の文字はとても小さく、そして多かった

文字の減った新聞

5年ほど前だったか、どこかの新聞社が「紙面の文字を大きくします」と発表していた。そりゃ大きい文字の方が読みやすかろう、まして主たる読者は年々高齢化しているのだから。当時はその程度にしか思わなかった。

実際、昔の新聞と今の新聞を比べてみると、いかに文字が大きくなったか見て取れる。もしもう何年も新聞を手に取っていないという人がいれば、手に取ってみてほしい。そのサイズの変化にきっと驚くことだろう。

といっても、もっともここで注目すべきはサイズ自体ではなく、サイズが大きくなったことによって文章に使用できる文字数が減ったということだ。

増やすか減らすか

文章は文字を増やすよりも、減らす方が難しい。
私はそう思えてならない。日々私的に何かを書く者として、また仕事として書くことに対価をいただけるようになって痛感するところである。

たとえば原稿を3500字以上で書いてくださいという命令があったとして感じるのは、「3500字も書いていいんだ」という心の余裕である。もしこれが1200字で収めろと言われようものなら、気もそぞろになるだろう。

なぜなら、文字数が減ったからといって、文章の質を下げてはならないからだ。だからこそ、

「この小さい欄の中で、こんなにも情報が詰まっているのか」

と文字数の減った新聞を見ると思えてならない。

文章を欠く

文章の文字を減らしているうちに、自分の言いたいことが伝わらなくなったりもする。原稿用紙で言えば、もっとマス目があればといったところである。もちろん文字数を減らしたことで、言いたいことがコンパクトにまとまるときもあるとはいえ、大半はやはりその逆であることが多い。

そうしてボリュームも質もダウンした文章をみつめると、私は文章を「書いた」のではなく「欠いた」と思うのだ。

「欠く」とは完全さを損なっていたり、あるべき何かが存在しない様子を指す言葉である。何かを「欠いた」文章では、書き手の私はもちろん読み手を満足させることなどできないのであろう。

ここまで989個の文字をしたためてきた。
今回の文章は、そしてまたこれまでの文章は適切に書かれてきたのだろうか。もしそれらが「欠かれた」ものであるならば、私の書く能力もまた何かを欠いているに違いない。

(1086字)


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