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自然は私に話しかけてこないけど

そういえば、自然に私が話しかけることはあっても、自然は私に話しかけてこない気がする。

私に農業を教えてくれているおじいさんは「自然が何を言うとるかを感じて、そんときそんときに必要なことをするんや」と私に言う。もはや仙人みたいなことを言うなと思ったら、実際、先日89歳になったらしい。
よくよく考えれば、昔の山水画に出てくる仙人も、当時の平均寿命を考えると傘寿すら迎えていなかったような気もしてくる。だとすれば、彼の方がよっぽど仙人らしい。

そんなモヤモヤを抱える私の前にも自然というものはそこにあって、2月の今日は畑にもうオオイヌノフグリが咲いていた。

オオイヌノフグリ

私はそんな彼らに「このクソ寒いのに咲かんでも」と畏怖なのだか嫌味なのだか分からない文言を話しかけていた。もちろん彼らから何か返答があるわけではない。

林業を営む人が雑誌のインタビューに答えていた。彼も木の声が聞こえるらしい。あのハーブ農家だって、草花の声に耳を傾けると気分が落ち着くと言っていった。だとすれば、私にも聞こえていいはずである。自然の声とやらが。

無粋なことを言えば、自然は人間のように話すことはおろか、動物のように吠えたり唸ったりもしない。ただそこにあるだけである。私だってわかっているのだ。草花に話しかけられるなんて表現が擬人法であることくらい。

それでも自然を相手に仕事をする人たちの多くが、自然の声が聞こえると口にする。たしかにそれは非科学的であったとしても、きっとまた事実の一つなのだろう。私自身もそう思いたい。なぜなら、そう思えれば、私の言葉も彼らに届いているのではないかと思えるからだ。

だからこそ、自然の声はまだ聞こえていないけど、私から自然への声掛けは続けていこうと思う。それがたとえ嫌味っぽくなったとしても。きっと声が聞こえるという人たちも、最初は彼ら自身が沢山自然に話がかけていたのではないか。
そしてそのうち「まぁお前もそこそこ頑張ってるか」とでも言わんばかりに自然がいつか自分を認めてくれるのかもしれない。

そうしたとき「こんなクソ寒いときに咲かんでも」は、嫌味なんてとのではなく、自然への畏怖以外の何物でもなくなっていることだろう。



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