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肩書がなくなる怖さ知っていますか?

肩書がなくなった瞬間、人は単なる人になるのかもしれない。

マウンティングおじさん

先日、久方ぶりに肩書でマウンティングをされた。
どうやらそのおじさまは、某有名大学を出て、いわゆる大企業で働いていたうだった。

もめるのも面倒なので何も言わなかったが、私はおじさまに聞いてみたかった。

「肩書がなくなる怖さ知っていますか?」

私が屋号を掲げた理由

私は今、役場の臨時職員をしながら、島旅農園「ほとり」という個人事業を営んでいる。島旅農園というのは字のごとく、島で旅行者を受け入れる「宿泊業」と島で作物を育てる「農業」を指す。

さて宿を始めたのは今年2021年7月なのだが、この屋号を付けたのは宿オープンの半年以上前である。その頃は島のどこで宿をするかも決まっていなかったし、農業もほとんど地に足がつかない状況であったのも確かだ。

それでも私が屋号を早々とつけたのは、実際のところ「肩書が欲しかった」というところが大きい。
屋号を持つ少し前に、営業活動の歳の名刺を作ろうとしたときだった。

「やばい、名刺に書くことがない」

と冷や汗が流れたのは今でも忘れれない。

つまり、私の氏名だけでは私は何者でもなかったのだ。

私を説明してくれるもの

学生の時は「~高校の」「~大学の」といえば、「あぁ、君は学生さんなのね」と皆が思ってくれたし、会社員であれば「株式会社~の」というだけで会社員というコミュニティに入ることができた。

他方で、肩書のない等身大の自分は他人から見れば何をしているか分からない存在に思えたのも事実である。
肩書として屋号を構えた結果として少なくとも「この人は何かしらの仕事をしているんだ」と思ってもらえる。そしてまた私自身もそう自覚することもできた。
肩書によって人間は判断できないが、肩書なくして自分を誰だか説明できる人間がどれほどいるのだろうか。

肩書を外す勇気はない

肩書は私たちを補助してくれる存在であって、他人を貶めるためには存在していない。だからこそ、肩書のパワーを自分のパワーとはき違え、肩書で人の優劣を判断するべきではないだろう。

肩書がなくなった瞬間、人は単なる人になるのかもしれない。それほど肩書によって自分が語られていることはまがいもない事実なのだ。

だからこそ、その補助を必要とする私には、肩書を外す勇気はまだない。

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マウンティングおじさんは、定年退職後、肩書が外れて自分を見失ってしまったのかもしれませんね。

無職生活が長引くと復帰しにくくなるといいますが、これも自分を説明してくれるものがなくなっていくからなのかなと予想したりしています。

というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

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