ガソリンを入れて走る人間たち
「今の食事って、ガソリン入れるみたいになってると思うんだ」
私は彼の一言にひどく衝撃を受けた。
大学時代に出会った彼は私が初めて出会った農業に熱い人だった。
熊本出身だという彼は、食事が給油化する現状を危惧している。
「車ってガソリンが美味しいとか美味しくないとか言わないでしょ。どのスタンドで入れようがガソリンはガソリンだから」
私たちは日々の生活の中で食事を食事として常に意識できている人はどれほどいるのだろうか。少なくとも私は彼と出会うまでは、どこか食事がカロリーや栄養を摂取するための行為と化す、すなわち自分にとってのガソリン給油であったことに気づいていなかった。
極端な話、食事を楽しみと思わない人はテキトーなもので空腹を満たし、足りない栄養はサプリメントで補えばいい。楽しみでないだから、こればかりは個人の自由としてそっとしておくしかない。
ただ、多くの人間にとって食事は日々の中で大きな楽しみであるはずだし、「美味しいもの食べたい」という欲求は労働や学業のモチベーションであると思われる。
にもかかわらず、「忙しい」や「キツイ」という念に苛まれると、食事という行為が単なる給油になることが少なくない。
私はいま、一応農作物の生産者の端くれとして、偉そうに文章をしたためている。ただこれは「私は充実な食生活を送っていますよ」というマウンティングではなくて、作物が畑にあるにもかかわらず、
「あぁ、もう今日はテキトーでいいや」
となってしまうという私自身の事実をお伝えしようという試みである。
すなわち、自身が多少なりとも栽培の辛さや楽しみを知っているにもかかわらず、有難みなんてすっかり忘れて、空腹を満たすことだけを目的とした食事をしてしまうということである。
食事を食事として意識するというのは、気持ちや体力に余裕がなければ案外に難しい。そしてまたそれが給油であったとしても、食事をしなければ人間は活動できないというのも事実だ。
だからこそ、給油のような食事が始まったと思ったときには、
「あぁ、そろそろ余裕も給油しないと」
と思えるような機会が必要である。
それがきっとこれから、私が一人の生産者として提示していくべき重要な価値の一つと思えてならない。
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私自身、一人で食事するときはやはり手抜きで、かつ早食いになりがちです。だからこそ、お客様と一緒にお料理して、ゆっくり時間をかけて食事をする時間がとてもありがたく、充実したものであるように感じています。
夏野菜もそろそろ終わり、いまは端境期です。
冬野菜を使ったお鍋やポトフが少し楽しみになってまいりました。
というわけで、本日はこれに!
2日ほどお客様のご対応で投稿できておりませんでしたが、元気にやっております。
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