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Episode 141 日にち薬が必要です。

1999年の夏に食品メーカーに転職して大阪に行って、その後琵琶湖岸の町に移り住み、関西圏を離れたのが2010年の春の定期異動でした。
その10年半の関西圏での生活で聞いた、印象に残る言葉のひとつに「ひにちくすり」という言葉があります。
読んで字のごとく、月日が経つことが薬になるという意味です。
骨折した足が完治するように、添え木をしてゆっくり過ごす時間が必要だという意味だと、私は解釈しています。

今振り返って思うのは、2005年から関西を離れるまでの期間というのは、正にこういう時期だったのかなぁ…ということです。

長女が立ち直っていく姿次女がのんびりと周囲に支えられて成長する姿ワンコやニャンコに助けてもらってイガイガせずに家族と過ごす時間を作れた私は、クルマ弄りみたいな自分だけが楽しい娯楽以外にキャンプという楽しみを覚え、やっと「家族とは」という感覚に触れることになるのです。
おそらくそれは、定型者なら大人になる前に経験する発達段階なのでしょう。

対人コミュニケーション能力の不足は、もって生まれた特性でしょうがない…のではなくて、避けて通ったが故に育たなかった感覚だったのだと思います。
それは「ガラスの仮面」のヘレンケラーって話で以前指摘したことです。
発達障害者は、苦手の代わりになる得意を無意識のうちに育てることで社会に適応しようとした、というのが私の考え方です。

幸運にも私は愛すべきパートナーとめぐり合い、子宝にも恵まれて「普通」に家庭を築くことになるわけで、ただ、自分自身の欠け落ちた部分はあちらこちらにあったのです。
仕事と家庭とのバランスの悪さ自分を律する行動パタンと家族との相性の悪さなど、発達障害を抱える人と定型者とのズレをパートナーに押し付けていたいたのだろうと思います。

こういったら非常に不謹慎かもしれませんが、子どもたちが躓いてくれたお陰で、私は自分の不得手と向き合うことになったのです。
パートナーは私と同年代の「大人」であって、ズレている部分を引き受けてくれていた部分が大きいのだと思います。
それが引き受けきれなくなるあたりが「カサンドラ症候群」であって、引き受けるというクッションがあることで自分自身の行動が見えにくくなっていたのでしょう。
そして子どもには、そのクッションがないのです。

子どもたちが躓いたことが、私のコミュニケーション能力で折れていた部分に添える添え木だったのです。
ゆっくりと時間を掛けて子どもたちが回復し成長していくように、私の感覚もこの時にちょっとづつ成長したのだろうと思います。

もし、この時に何にも気が付かない親父だったら、今頃「毒親」になっていたことでしょう。

めぐりあわせに感謝です。
家族に子どもたちに、ワンコやニャンコに、家族とともに過ごす遊び方を教えてくれた仲間に。

ありがとう。

旧ブログ アーカイブ 2019/2/2

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