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Episode 31 歪みなんかじゃないのです。

少女漫画の金字塔、美内すずえ先生の「ガラスの仮面」に「奇跡の人」を扱う物語があります。
かなり初期のころの内容ですが、その中にヘレンケラーが「水」に出会う前の遊びについての描写があるんです。
「見えない」「聞こえない」それゆえに「話せない」彼女が遊ぶシーンを、主人公の北島マヤやライバルの姫川亜弓が演じるんですね。

彼女らはおもちゃを振り回して遊ぶとか、そういう見た目に遊んでいるようなことをせずに、爪をカチカチさせるとか本を破るとか、一見遊んでいるように見えないことをやり始めるんです。
ヘレンは見えないし聞こえません。
一般でいう遊ぶということがどういうことがわからないから、手で触ったものを感情の赴くままに扱うわけです。
彼女の中ではそれが「遊ぶ」ということで、一般とはズレているけれど彼女の中では、少なくても彼女が手の届く範囲ではそれが楽しいわけです。

ASDと診断されて、私自身の何がずれているんだろう、何が歪んでいるんだろうと考える日々が長く続きました。
それが原因で体調を崩してしまった時期もありました。

でも今は、少なくても「自分は歪んでいない」と思っています。

ここひと月ほどかけて、過敏/鈍麻とそれから派生する得意/不得意と両極思考についてお話してきました。
過敏がある、それは事実です。
それを如何にカバーしようとしてきたかが成長であって、発達の方向性がASD型に向いただけだと今は思ってます。
方向性の分岐点は無限にあったのです。
お話してきた中にも、時間厳守と遅刻魔の分水嶺や、苦手をカバーする得意の発達があったりと、生きていくために必要なスキルを自分なりに身に着けようとする子ども時代の成長は「定型者」と同じようにあったわけです。

私の場合は聴覚や触覚に関する苦手があり、文字も苦手でした。
その苦手をカバーするために見る能力が鍛えられた、そこを生かすための思考回路が生まれた、得意と苦手の差が広がる中で、自分が出来る範囲での社会的接点を作ろうと努力した、その結果がASDと評価される思考パタンだった…それだけの話です。
歪んでなんかいません、正常に発達したんです。
「自分自身に与えられた範囲で出来ることをしようとした」という視点に立って、本を破る遊びをするヘレンと、そばにいて喋らない私と、楽しそうに会話する定型者の違いって、いったい何だろう?

これを「歪み」と表現するのが、発達障害を取り巻く社会の現状です。
自分の能力に合わせて成長した結果が「歪み」なんて、ありえないじゃないですか。

私はそのことをこのブログで発信し続けたいのです。
発達障害は特性であって、本当は病気でも障害でもないってことを。 

旧ブログ アーカイブ 2018/10/15

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