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桜を美しいと感じなくなった日

窓の外では、ソメイヨシノが満開に花を咲かせている。

骨身にしみるような冷たく厳しい冬をなんとか耐えしのいだ人々を、桜はその淡く力強い生命をもって温かく抱擁してくれる。

私は南国の出身だから、東京の冬は人一倍こたえる。もともと寒いのが苦手なため、外に出るのが億劫になってしまう。

容赦ない厳寒は私から生きる気力を少しずつ奪い、冬が終わる頃にはすっかりくたびれてしまっている。

そんな冬の終わりとともに芽を出すのが桜で、まるで人の気持ちと同調しているかのように花開いていく。

東京に出てきてからというもの、私はすっかり桜の美しさに魅了され、しばしばそれに関する思索を詩にしてきた。一月もすればまるで夢を見ていたかのように儚く散ってしまうその姿を、なんとか形にとどめておきたかったのだ。

上京したての頃にはこんな詩を書いていた。

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「夢見草」

散る散る
ひとつふたつと
桃色花びら
ふたつみつ
風と手を取り
みつよっつ

樹洞がぽっかり口を開け
春がくるくる落ちるのを
老いて静かに眺めてる

大地を突き破っては
また還ってゆく

命の往来を眺めてる

楽しそうに(あるいは哀しそうに)
暮れてゆく人間どもの
空に広がる
なんぜんなんまんの
桜しぐれ

いつまでも咲いていてほしいから
いつまでも咲いてはいられない
腫れた乳房の少女が
いそいそと化粧を落としている

ほの暗い病室の静寂にも
夜に輝く街の喧騒にも
さくらは同じにやさしくなる

散って散って散り抜いて
あわやこの国まるごと
桜色

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その美麗さに魅了された私は毎年春になると花見をしに出かけ、いつしか冬を乗り切るための希望となっていた。

あれから長い年月が経った。あの頃抱いていた夢は少しずつ叶えられているし、当時は諦めていた結婚もすることができた。

当時のわたしが今の私を見れば、おそらく喜んでくれるに違いない。

しかし、何かを掴むためには何かを手放さなければならないのも事実で、現実的な成果と引き換えに、私は心のどこかにあった大切ななにかを打ち捨ててしまったようだ。

それはおそらく個性とも感受性とも呼べるし、あるいは汚れのない余白のようなものなのかもしれない。

現実に打ちのめされ、すがるものが何一つなかった当時は、自分自身の感性だけが頼りで、生きている意味や価値をなんとか見つけ出そうと必死だった。

劣等感だらけの自意識は、ある意味では感性を研ぎ澄ます砥石でもあり、少しでも物事の本質に近づくためにあらゆる事象に対して自分なりの意味づけを図っていた。

しかし、あるときから「物事に意味なんてない。全てはただの偶然だ」と思うようになり、その頃から仕事もプライベートも上向きになった。このとき、私は大切ななにかを失ったのだ。

窓の外では桜が満開に咲いている。

だが、私の心は昔のようにむき出しに反応するのではなく、ただ鈍くかすかな哀愁を感じるのみだ。

あれだけ美しいと感じ、詩にしきれないほどの圧倒的な桜の生命の尊さの前にひざまずいて涙を流していた私が、今や桜を見てもろくに感動もせず、ただ通り過ぎる風景の一部としてしか捉えられていないのだ。

定職につき、守るべき家族を持ち、だから、それがなんだというのだ?

桜を見て震えるほどの感動が得られない人生に意味なんてあるのか?

ひどい焦燥感に苛まれた私は、国立新美術館で開催されていたダミアン・ハーストの『桜』という展示会へと足を運んだ。

心の機微に敏感な芸術家たちは一体桜をどのように見て、どのように感じているのか。それが知りたかった。

会場に入ると、そこには巨大なキャンパスがいくつも並んでおり、様々な種類の“桜”が描かれていた。




見る人を圧倒するスケールで描かれた桜は、現実とはかけ離れた色彩を散りばめながらも、それによってより一層現実味を伴って肉迫してきた。


あえて詳細に描かないことで想像の入り込む余地を作り、鑑賞者一人ひとりに全く異なる印象を与えるであろう作品群は、私がどこかに置き捨ててきた感性に熱を入れてくれた。

見たものをそのままに認識することはカメラにもできることだ。人間という生き物はそういうものではない。そこに私情やら価値観やらが入り込んで、実際とは異なる色彩として捉えるのが人間の本懐だろう。

それはつまり、物事を歪めて捉えるということだが、それこそが人間らしさというものじゃないか。

およそ美しい風景を見てもなんの感情も抱かないというのは、それは型通りの常識の範囲内で認識してしまっているからだ。

「あ、桜だ。そうかもう4月が近いからな。桜は春に咲くからこの時期に咲くのは当然だろう」

知識だけで判断しているからなんの感情も抱かない。

そこには血の通った解釈はなく、AIのように周囲から刷り込まれた常識を自動的に反映しているに過ぎない。

忙しい日々の中で、私は徐々に己の感性というものと向き合うものを避けるようになり、そしてAIのような人間になってしまったのだ。

心が揺れずに「桜、きれいだなぁ」とつぶやいても、それは言わされているだけだ。嘘吐きの言葉だ。本当に本心からこみ上げる詠嘆にこそ生命の真髄が込められている。

私は再びかつての感性を取り戻すことができるだろうか。ダミアン・ハーストの桜たちは、絵の具の塊を投げつけることで完成されていた。

あの絵の具の塊の数々は、いわばダミアン・ハーストの心からちぎり取られたものだろう。だからこそ、あの絵には間違いなく生命が宿っていた。

私自身も、己ののっぺりとした心の中に、感情の塊をぶつけ、いつかあの頃の完成を取り戻したいものだ。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。