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歳を取ればみな一人ぼっち。お金よりも大切なもの

近い将来、人生100年時代が到来する。今生きている私たちのほとんどは100歳前後まで生きるかもしれない。

定年は65歳から75歳、あるいは80歳になるかもしれないし、かりに80歳だとしても死ぬまでにあと20年もある。20年といえば赤ん坊が成人してしまう莫大な年月だ。

私は仕事柄、高齢者と接することが多い。100歳を超える人と出会う機会も何度かあった。

彼らが抱えている悩みや楽しい思い出、家族の話などに傾聴していると、高齢者といえど、私たちと変わらない一人の人間なんだということに気づく(当たり前だが、なぜか私たちは”年寄りは悟っている”という先入観をもちがちだ)。

日本の医療・介護制度の問題も深く関わるが、お金も時間もない現代の日本で自立できない高齢者と生活をともにするのは困難なことだ。

ベッドから起きがれなかったり、入浴ができなければ、その都度介助する必要があるし、真夜中に排泄の訴えがあれば疲れていてもおむつを取り替えなければならない。

認知症を患っていれば徘徊しないように常に看ている必要があるし、感情的になるタイプであれば暴言に耐えながら献身的にお世話をしなければならない。さらに、子供がいるなら子育てと介護を両立する必要がある。

もちろん、親のためならどんな苦労もいとわないという人は多いだろう。しかし、介護のために離職し貧困に陥る人や、介護疲れから心中する人も少なくない。

だから、よっぽどお金と時間に余裕がある家庭でなければ、自分の親が要介護レベルになってしまうと、施設に預けざるを得なくなる。

施設といってもピンきりで、入所者の人権を最大限尊重して穏やかな生活を支援する優良なところもあれば、個人の意見など全く受け入れられず、時には虐待まがいのことをされるところもある。

入所するためにウン千万円必要な有料老人ホームであれば前者であることが多いが(それでもピンきり。結局はそこの職員のモラル次第)、介護保険などで最低限のお金しか払えない場合は後者の施設を利用することが多い。

もちろん、入所費が安いところでもしっかり人権に配慮しているところもあるが、私の経験上ほとんどの施設は業務の効率優先で、入所者の感情に配慮しているところは少ない。

施設に入ってしまえば家族の面会だけが心の支えとなるが、頻繁に家族が会いに来るという人は少ない。月に一回くればいいほうで、ひどい場合では一切面会に来ないこともある。

つまり、ほとんどの人はそういった施設で老後を過ごすことになり得るし、そこでは孤独な生活が待っている。もちろん、職員や他の入居者との交流もあるが、人生の支えとなるほどの関係を築くのは難しい。

そのような状況で心の支えとなるのは、”過去の思い出”だけだ。小さい頃いろんな遊びをしたこと、家族のこと、初恋のこと、子供が生まれたときのこと・・・そんな思い出を幸せそうに語る人は多い。

私はそういう話を聞くのが大好きだ。その人がどういう価値観を大事にして、どういう生き方をしてきたのかを知ることができるからだ。

これはあくまでも私の偏見だが、幸せそうな高齢者は、みなステキな思い出を持っていることが多い。聞いているこちらの心が動くような、そんな濃厚な経験を持っている。

一方、話すことが仕事のことやお金のことしかない人というのは、いつも何かに不満そうにしている印象がある。そういう人は性格的にも傲慢で社交的でないことが少なくないため、みなから敬遠されがちだ。

人生の終盤を生きている彼らを見て、私は人の幸せについて考えさせられることが多い。まだまだ若輩者の私はお金や仕事での成功などを思い浮かべるが、どうもそうではない気がする。

幸せというのは、人生の中で忘れられないようなステキな経験をいくつ重ねてきたかということなのかもしれない。

人は歳を取ってしまえばみな一人ぼっちになる。だから、今のうちから大切に思えるような経験を積み重ねていき、”思い出の大金持ち”になろうと思う。



大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。