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オリンピックにおける国籍とは

「どの国の代表チームに所属するかを決定する要素であり、人々の身内感に大きく影響をするものである」。

このことに前から違和感を感じていたので、改めて考察した。

北京オリンピックでは「アメリカで生まれ育ったけど中国にルーツを持つ選手」が、国籍を中国に変更するなどして、中国代表として参加をするというケースがいっぱいあったみたい。

同じように、「海外で生まれ育ったけど、日本にルーツを持つ選手」が日本代表として参加をするケースは、けっこうある(大坂なおみ選手とか)。この人たちは日本代表なので、日本では応援される。

しかし逆のケースではどうだろう。つまり「日本で生まれ育ったけど、海外にルーツを持つ選手」がいたとして、その人が国籍変更するなどして、そのルーツのある国の代表としてオリンピックに出たとした場合。

きっとこの人たちは、日本ではごく一部の人以外には応援されない。その人が勝っても、日本のメダルじゃないし。でも、それもなんか変というか、寂しい話。だってその人は私と同じように、日本で生まれ育った人なんだから。

僕はきっと、「国籍によって、人々にとってある人が身内かどうかが変化する」ということに、強い違和感を感じている。国籍というものはけっこう意図的に操作可能なのに、それは人々の「身内感」にすごく影響する。

アメリカや中国では、一部の人がアメリカ代表のNathan Chenや、中国代表のEileen Guに対して「この人は身内。でもあの人は違う!」とか言ってるみたいです。アメリカと中国に限らず、こういうのはどの国であっても言われるでしょう。この分断を決定する「国籍」とは、いったい何なんだろう。ポジティブな側面より、ネガティブな側面の方が多いんじゃないか、と思わざるを得ません。

Nathan Chen(ずっと米国籍)
Eileen Gu(2019年に米→中に国籍変更)

別にオリンピックに限った話ではなく、この手の「相手を身内かどうかを決める心理的な境界線」というは、あちこちに存在している。

全て悪いものだとは必ずしも言えないのかもしれないけど、この境界線は、往々にして悪く作用すると思う。もともと違いなどないところに違いを作り出し、いらぬ対立を生じさせるものだと思う。本質的に人間は、人以上でも以下でもないと信じてる。

この「国籍」のように、自分が当たり前のように受容している心理的な境界線に気がつき、見つめてみると、自分の心に植え付けられた分断意識に気がつく。それにいつも気が付けるようでありたいし、乗り越えていきたい。神は、人が勝手に引いた境界線を取り払い、分断のあったところに一致をもたらしてくれたのだから。

そして、全ての人が互いに「身内感」を持ったらどんな世界になるだろうか、と妄想したりする。夢のまた夢のような世界だけど、きっとそれが目指すべきゴールなんだろう。

おわり。

聖書の言葉

イエス・キリストは、古代ローマ帝国という厳格な階級社会において「全ての人は等しい」と宣言しました。そして全ての人を等しく愛し、癒し、分断から解放しました。

強い者も弱い者も、富んでいる者も貧しい者も、階級の高い者も低い者も、健康な者も病んでいる者も、どの民族グループに属する者であっても、みな等しい存在(=新しい一つの体)なのです。

「人々を隔てるものは無い」ということが明らかになのに、私たちがまだそれを隔てようとするのであれば、その境界線は私たちがイエス・キリストのもたらした一致に反して、意図的に引いているものです。

私たちが「あの人は身内、あの人は違う」と言っている時、きっと私たちは「おい手!お前なんて仲間じゃないよ」と言っている目であり、「頭?ぼくとは関係ないね」と言っている足みたいなもんなんでしょう。

いうなれば、みんな本質的には「天」という大きな国の1つの国民なのです。それ以上のものは、後からとって付けられたもの。

私にも、この世界における「国籍」という意識が植え付けられ染み付いています。でもきっと、全ての人に対して、自国民のように親しみをもつことがゴールなんでしょう。難しいですね。



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