オリンピックにおける国籍とは
「どの国の代表チームに所属するかを決定する要素であり、人々の身内感に大きく影響をするものである」。
このことに前から違和感を感じていたので、改めて考察した。
北京オリンピックでは「アメリカで生まれ育ったけど中国にルーツを持つ選手」が、国籍を中国に変更するなどして、中国代表として参加をするというケースがいっぱいあったみたい。
同じように、「海外で生まれ育ったけど、日本にルーツを持つ選手」が日本代表として参加をするケースは、けっこうある(大坂なおみ選手とか)。この人たちは日本代表なので、日本では応援される。
しかし逆のケースではどうだろう。つまり「日本で生まれ育ったけど、海外にルーツを持つ選手」がいたとして、その人が国籍変更するなどして、そのルーツのある国の代表としてオリンピックに出たとした場合。
きっとこの人たちは、日本ではごく一部の人以外には応援されない。その人が勝っても、日本のメダルじゃないし。でも、それもなんか変というか、寂しい話。だってその人は私と同じように、日本で生まれ育った人なんだから。
僕はきっと、「国籍によって、人々にとってある人が身内かどうかが変化する」ということに、強い違和感を感じている。国籍というものはけっこう意図的に操作可能なのに、それは人々の「身内感」にすごく影響する。
別にオリンピックに限った話ではなく、この手の「相手を身内かどうかを決める心理的な境界線」というは、あちこちに存在している。
全て悪いものだとは必ずしも言えないのかもしれないけど、この境界線は、往々にして悪く作用すると思う。もともと違いなどないところに違いを作り出し、いらぬ対立を生じさせるものだと思う。本質的に人間は、人以上でも以下でもないと信じてる。
この「国籍」のように、自分が当たり前のように受容している心理的な境界線に気がつき、見つめてみると、自分の心に植え付けられた分断意識に気がつく。それにいつも気が付けるようでありたいし、乗り越えていきたい。神は、人が勝手に引いた境界線を取り払い、分断のあったところに一致をもたらしてくれたのだから。
そして、全ての人が互いに「身内感」を持ったらどんな世界になるだろうか、と妄想したりする。夢のまた夢のような世界だけど、きっとそれが目指すべきゴールなんだろう。
おわり。
聖書の言葉
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