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ゲイツ夫妻の離婚のニュースを見て、結婚の意味を考えた

成長できないと思ったから離婚する二人

少し前になりますが、メリンダ & ビル・ゲイツ夫妻の離婚のニュースを見たときに違和感を感じたのは「夫婦として一緒に成長できると思わなくなった」というその理由です。

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ここに書かれていない色々な理由もあるのだと思います。ゲイツ夫妻も少なからず傷ついていたのだと思います。でも、30年近く共に歩んできた2人の関係の終わりが「カップルとして成長できない」だと思うと、虚しいと感じるのです。https://www.bbc.com/japanese/56976033

「夫婦としての成長」が結婚の目的とでも考えていたかのように聞こえますが、僕は結婚における成長は結果であって、目的ではないと考えます。


結婚誓約

結婚は欠けのある人間同士がするものなので、傷つくことがあり、例外的に離れるという決断をせざるを得ない場合もあるのだと思います。ただ「お互いに成長できると思わない」と言う理由は、どんなに頑張っても聖書的には離れる決断の理由として相応しいものにはなりません。

結婚式ではよく使われる誓いの言葉で、「私はこの人を、病める時も健やかなる時も、愛することを誓います」みたいなのがありますよね。これは世界中で使われている誓約文なので、ゲイツ夫妻も誓った可能性が十分にあると思います。この時、「… 愛することを誓います。ただし夫婦として成長できないと思った場合は除いて」とは言わないわけです。笑

結婚を通した成長

「結婚を通した夫婦として成長する」という考えは一般的に見られる考え方ですし、個人的には結婚に成長を期待するのは何ら問題ないと思います。しかし、それを目的とするのは不適切だと考えます。もしゲイツ夫妻のように「個人の成長という利害が一致している期間は結婚という形を取り、その利害が一致しなくなったら離れる」ということであれば、それはなんだかお互いに自分のことばかり見ている感じで、どこか自己中心的。結婚誓約どこいった。

聖書を読むと、ゲイツ夫妻の求めていた「夫婦としての成長」とは、この結婚誓約を守り抜くときに与えられるということを学びます。結婚とは本来、誓約にあるように「どんな時も、何があっても愛すること」が目的なのであって、成長はその結果です。そして、結婚相手という自分に与えられた存在を結婚式で誓約した通りに愛する時、人生で経験しうる最大の成長が与えられるのです(たとえそれが今は感じられないし、将来与えられると想像できなくてもです)。だから、自分たちの限られた理解力で成長を定義したり、安易に結婚相手を変えたりすると、その最大の成長機会を奪ってしまうことになるのだと考えます。

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「なにがあっても絶対にこの山を登る」と決断し登るから、体は鍛えられるし、メンタルは強くなるし、想像もしなかったような自然の美しさを楽しめるわけです。登るのが難しい山であれば道は厳しいし、時には雨風に打たれたり、寒さに凍えたり、道に迷うこともあるでしょう。もしその時に「いや一度登ると決めたけど、やっぱ辛いし嫌だからやめよう。別に他にも山あるし」と言ってヘリコプターで下山するなら、その山を登ることで得られるはずであった成長、喜び、満足感は得られないわけです。

一般的な結婚式の誓約ではカットされていることが多いのですが、伝統的な結婚誓約では「神の聖なる定めに従って愛する」という一言が入っています。神の定めに従って、与えられた相手を誓約の通りに愛するときに、我々の人格は、我々がたどり着ける最大級の水準まで練り上げられるのだいう聖書の考えを信じます。

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聖なる誓いです。改めて見ると非常に重たいことを言っておりますので、異性として好きだからといって、軽々しく誓えるものではない。この誓いは、人が自力で守るのは無理なのかもしれません。


結婚とは契約関係

結婚誓約にあるような、結婚におけるこのある種の「拘束性」が、愛を次のレベルへと引き上げ、我々に本当の成長と満足感を与える。こう思うと、結婚はやはり恋愛というよりは、一種の契約関係なのだなと思わされます。三者間契約です。

僕も結婚式でこの誓約をしました。僕にとっても結婚生活は簡単ではないと感じることもありますし、これからもっと大変になることもあるのだと思いますが、誓約の通りに妻を愛していこうと改めて思わされました。愛は感情ではなく、決断と行動であり、自分次第だからです。僕たち夫婦がいつも愛を選んでいけるように、お祈りいただけると嬉しいです:)


聖書の言葉

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ある夫婦が結婚するまでの軌跡に想いを馳せ、その要素を一つ一つ考えてみると気が遠くなります。お互いの生まれ育った場所、人生で行った全ての決断、嗜好や性格が形成された背景、両親の影響、その両親の性格の形成の背景.. ちょっと考えただけでも、これら全てのものが2人の結婚という結果につながっている。1つの条件が異なっただけでも、二人は結婚していない。夫婦は自分たちで相手を選んだと思いますが、二人が出会い結婚するに至った軌跡とその可能性の低さを思うと、二人は恣意的に「結び合わされた」と考える方が、自然だと考えます。世界はそれを「運命」と呼びます。間違っていないと思います。ただ運命とは、ただの偶然ではなく、司る存在がいると考えるのです。

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非常に高い次元の愛が命令されているわけですが、ここでいう愛は、恋愛的な「好きという感情」を指しているわけではありません(そもそも感情はコントロールできませんから、命令されても無理ですね)。ここで言われているのは「行動としての愛、決断としての愛」です。これは決断と行動なら、自分の意志でコントロールできる。もし感情がなかったとしても愛することは可能です。

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なぜ感情に関係なく愛することが可能か。それは私たちがまず神に愛されているからです。神の愛を心から理解する時、我々の心の「愛の貯蔵庫(ラブタンク)」は神の愛で満タンになりますので、他者にたっぷり与えることができるのです。感情に支配されずに愛するものとなるためには、神の愛を知る必要がある。神の愛を心から理解する時、愛することに関しては無敵になります。


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