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管理するよう任されたものを、正しく管理するということ

最近読んだファミリービジネスに関する本の中に、このような印象的な言葉がありました。

「優秀なファミリービジネスのオーナー一族は、財産を自分のものとは考えていない。自分たちは先祖の財産を預かり、価値を高め、次の世代に渡す役割と捉えている。まるで、自分を財産の管理人とでも考えているようだ。」(「同族経営はなぜ3代でつぶれるのか?」武井一喜著、クロスメディア・パブリッシング)

実は結構すごいファミリービジネス

ファミリービジネス(家族経営)は往々にして悪いイメージを持たれがちだと思います(不透明、封建的、公私混同などなど)。実際おかしなファミリービジネスもすごく多いのですが、長寿で競争力が高い企業の中には、一つの家族によって所有されている、ファミリービジネスの企業が多いのです。

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有名なファミリービジネスの一例です。他にもLEGO、ヒルトン、ポルシェ、H&M、ハイネケン、Swatch、トヨタ、サントリーなどなど。例をあげればキリがありません。

そのような優秀な企業のオーナーファミリーは、往々にして上記のような美しいマインドを持っています。「私たちはこの会社に対して大きな権限を持っており、自分のために使うことだって出来るかもしれないが、それはしない。なぜならこの会社や事業は決して自分のものではなく、自分はあくまでこの会社が本来の目的を達成するために、与えられた資源を管理する役割だからだ」という考えを持っているようです。

聖書との共通点を強く感じた

この箇所を読んだ時「素晴らしい.. そしてなんだか聖書みたいな考え方だ」と思いました。と言うのも、「管理者」というのは聖書ではかなり大事なキーワードなのです。例えば、聖書では「人は自分の体やいのちの所有者ではなく、管理者だ」と言われています。人は自分の体やいのち、そして人生に対して大きな自由を持っていますが、所有者ではなく管理者なので、決してそれ好き勝手に使って良いわけではないのです。

当然ですが、人は体やいのちを手に入れるために努力をしたわけでも、対価も支払ったわけでもありません。それは一方的に与えられています。それは、「家族である」という理由で事業継承した人に似ているかもしれません。*

*実際にファミリービジネスを承継する多くの人は、相当の努力をしている人が大多数です。ここではあくまで例えとして用いています。

ファミリービジネスの企業は、経営者が預かっているもの

このように事業継承した人が「この会社も財産も、全部おれのものだ!好きに使おう!」と思うなら、会社はその本来のミッションを達成することはないでしょう。でも、冒頭で引用した良いオーナー一族のように「この会社も財産も自分のものではない。自分はあくまで管理者だ」と考え、本来のミッションの達成を追求するなら、いつの日かそれを達成する素敵な企業になりえます。

体と命は、人が預かっているもの

人の体といのちも一方的に与えられ、自分が大きな権限を持っているものですから、同じことだと思うのです。我々も自分の体といのちは預かり物だと考えるべきです。そうすれば、本来のミッションを達成できると思います。

人生のミッション・ステートメント

そう、企業にミッションがあるように、人生にもミッションがあります。それを達成するために体が与えられ、いのちが与えられている。人のいのちは決して意味や目的がないものではないし、「ヒトの生殖活動の結果」みたいな科学的で無機質なものでもありません。

その人生のミッションと、それを達成するための方法が、聖書に書いてあります。聖書は人生に対する人類普遍の「ミッションステートメント」であり、「ミッションを達成するためのマニュアル」のようなものです。だから信じてます。

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「ウエストミンスター小教理問答集」という、17世紀にイングランドで成立した権威ある問答集には107の問答があるのですが、第1番の問答がこれです。しびれます。
Q1. 人のおもな目的は、なんですか。
A1. 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことでです。

僕はこの人生に対して大きな権限を持っており、自分勝手な思いのために使うことも出来ます。実際そうしたいと誘惑がいつもあるのですが、その気持ちに抗いたいと思います。この人生は決して自分のものではなく、自分はあくまで管理者だからです。僕が達成を追い求めるべきことは、「自分の思いで作った夢」ではなく「自分が達成するべきミッション」だということを忘れずにいたいです。

与えられたこの体といのち、正しい目的のために正しく管理していきましょう:)

聖書の言葉

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人の体は人のものではないということが明記されている聖書箇所です。前掲の「ウエストミンスター小教理問答集」で人の目的として書かれている、「神の栄光を表すこと」が命じられています。これが人の主な目的ということで間違いなさそうです。

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原語ではこの「治めよ」という箇所に「管理せよ」という意味を含んだと言葉が使われています。人は世界の管理人として任命されているのです。人は果たしてこの世界の管理人だという自覚はあるのでしょうか。自分のことを所有者と勘違いをしているのではないだろうか。

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我々には自由意志が与えられており、どんなことだってできます。だから気をつけていないと、「でき得ることは、全部しても良いこと」になってしまいます。それでは破滅する。できることのうち、やるべきこと/やらないことを判断する必要があるし、そのためには、絶対的な倫理基準に照らし合わせる必要があるのです。


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