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それでも、愛だったんだろうなと思う


※たぶんくら~~い気持ちになります。ここで打ち止めにしておきたい、家族の話。こっそり置いておきます。


両親は私に、何より「勉強ができる子」に育ってほしかったらしい。

幼稚園に入るより先に塾に入った。大好きだったママに怒られるのが怖くて、言われるままに毎日机に向かった。それでも勉強したくない、と泣いて、いつも怒られていた。5歳で幼稚園に入って、「他の子は九九も言えないのに、遊んでてズルい」と言ったとき、父親が私の幼稚園の制服を外に投げ捨てた。母は、それを黙って見ていた。

21歳になった今、その年頃であろう子たちを見かけると、その弱さを目の当たりにして泣きそうになる。「え、わたし、こんなに小さいときにあんなことされてたの?」って。それでも愛だったんだろうな、彼らにとっては。


とにかくそうやって言われるままに勉強をして、小学校に入った。お金をかけてもらったおかげで「頭のいい子」になった、その6年目。塾で一番成績が良かったから「これなら県内の有名私立中学を狙えますよ」なんて言われたんだと思う。100人中100人が地元の中学校に進学するような田舎で、私だけが中学受験をすることになった。行きたくない進路を勝ち取るための勉強が苦痛になるのは当たり前で、受験が近づくごとに、表彰される教科は少なくなっていった。「国語が得意な子」から「国語以外できない子」にラベル替えされていくことは、両親からしても、塾の人間からしても望ましくないことに違いなかった。「国語なんかできたってどうしようもない」と言われ慣れた頃、『いっそ全部馬鹿な方が諦めてくれるんじゃないか』と、受験勉強をやめた。散々両親からの怒号を浴びながら(母親の声は悲鳴だったかもしれない)地元の中学校に進学して、音楽を始めた。


今までお金をかけて「頭のいい子」に育てていた子が、急にバツをつけられるとどうなるか。

私の家族の場合、私自身よりも先に親の方が耐えられなくなった。扉の向こうで父が母を叱責する声が聞こえたし、母も私も誰かのせいにしないと気が狂いそうで、毎日のように怒鳴って、物を投げて、悲鳴を上げて、疲れてやっと正気に戻るような生活だった。それはまだいい方で、正気に戻らないときもあった。寝ている私の部屋へ来た父親が、部屋中の窓を開けて「○○(母親のフルネーム)は娘一人さえまともに育てられない無能だ」と叫び続けた夜、父親の手を掴んで「やめてください」と泣く母親が、ずっと記憶に残っている。こんな仕打ちを受けるのが結婚なら、私は一生1人でいいと思った。


これ以上ここにいたらいつか彼らを呪い殺してしまうだろうな、なんてバカみたいなことを割と本気で考えて、遠くの高校に進学した。母は何も言わなかった。父親は私にメールで「親元を離れることで情緒不安定にならないか心配だ」と送ってきた。笑えるよね。やっぱり何も理解っていなかったけど、もういいんです。愛だったんでしょうね。

家族として、あまりにも不安定だったんだなと今ならわかる。

「成績が落ちた」
こんなしょうもないことで、と思う。言ったこと言われたこと、したことされたこと、全部がもうどうしようもない。それでも全部が時効になった今、愛だったんだろうなと思う。思うことでしか、今をやり過ごせない。もっと早く折り合いをつければよかったのに、一丁前に傷だけ残ってしまいました。グレたとき「絶対将来後悔するよ」と脅してきた大人たちは、元気にしているでしょうか。もう顔も覚えていない大人たちはまぁたぶん正しかったけど、それでもこれは、延命だったと思うよ。
とか言って。
本当は後悔しているのかもしれないけど、あの時の自分の味方を続けたい。それができるのは、まだわたししかいないので。




ここまで意味の分からないまま読んで暗い気持ちになったみなさん、「Sori sawada」さんの曲でも聴いてください。弱くなれる時間と場所で、ぜひ。



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