末永幸歩『13歳からのアート思考』に救われた話
最近、ある友人グループの何人かに、自分がうつ病であることを伝えた。それから、無職であることもだ。どうして伝えたかと言うと、年に数回会うたびに「今何してるの?」というよくある質問に嘘をつくのが、めんどくさかったからだ。
一瞬だけ就いていた前職を続けていることにしても良かったのかもしれないが、実際は無職なので、仕事に関する話題がない。もし話が広がったら、嘘を考える労力が非常にめんどくさかった。
うつ病であることと、無職であることをカミングアウトしたときの反応は、友人によって様々だった。
同情するような、困ったような顔をする人、事情がよく想像できなくて、的外れなことを言う人、こちらが出来る限り気を使って軽い調子で話したので、深刻に受け止めない人など。
中には、「無職だよ」と答えただけで、「あっそう」と素っ気ない態度をとる人もいて、何だか傷ついた。
傷ついたときに、私自身が何らかの期待を、友人たちに、実は抱いていたことに気づかされた。
わざとらしい肯定や励ましはいらない。ただ、うつ病で無職であるということを、受け止めてほしかった。さらに言えば、欲張りかもしれないが、私が平気そうな顔をしていても、本当はつらい思いをしている部分があるということを想像してほしかった。
人に期待をするだけ、期待が外れた時のがっかり感は強い。期待なんてしない方がいいに決まっているのに、愚かにもそういう期待をしてしまった。期待をなくせなかったのは、自分の中で、無職であることの後ろめたさがあるからだと思う。
後日、その気持ちを救う、ある本に出会った。
その時抱えていた悩みを解消しようとして選んだ訳ではなく、たまたまペンギン先生さんの記事から、面白そうだと感じて手に取った本だった。
末永幸歩氏の『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』。
この本の内容自体は、アートというものに対する数々の問題提起の歴史の話や、アートの観賞の方法、「アート思考」という、物事に関する自分なりの考えをつくりだすための思考プロセスの話だ。
単純に、アートに関する歴史的経緯や、価値観の変遷の話が、面白かったというのもあるのだが、今回、私が救われたのは「アート思考」という思考方法の紹介によってである。
ここで言う何かを生み出すとは、アーティストやクリエイターだけのものではない。
「アート思考」とは、
ということだと言う。
自分なりの答えを見出すということは、情報があふれかえる今の世界で、自分の軸を持つことだ。
私は、友人の存在という世間の評価を気にして、無職であることを情けないと思っているが、別に法を犯しているわけでもなく、他人に多大な迷惑をかけているわけでもない。
さくらももこ氏の『コジコジ』ではないが、まさに「遊んで食べて寝てちゃダメ? 盗みも殺しも詐欺もしてないよ。何が悪いの?」である。
X(Twitter)でこの言葉が出回っていたときは、そうは言っても社会が許してくれないだろうと思って、あまり響いていなかったが、今なら受け入れられる気がする。
というか、世の中自己責任論が流布し、無職に対する否定的な意見が目立ってしまうが、うつ病になったのは自分のせいではないし、貧困は個人の責任ではないし、生活保護は国民の正当な権利だというのが、私の本音であり、社会福祉の理念だ。
でも、それはマイノリティーな社会的弱者の意見であり、マイノリティーな存在は、尊重されないと、どこかでずっと思ってきた。
しかし、『13歳からのアート思考』を読んで、そんなことは関係ないんだと気づいた。
本によれば、「アート思考」とは、見通しのたたない世の中を生きていくために、自分の内にある興味に従って、自分なりの探究をし続け、自分の見方で世界をとらえることなのだ。
この「アート思考」の内容を読んで、私は自分独自の考えが許されてもいいんだと、孤独感が和らいだ。それに、自分の興味のおもむくままに、世の中を探求し続けるとは、なんと魅力的な世界だろうと思った。
現実的には、世の中の色々な意見や、色々な知見があって、それらに影響を受けるものだから、自分独自の考えなんて、めったに存在しないものだろう。
友人付き合いの中で、今の自分の状況に焦ったり、過去の嫌な経験から、歪んだ思考を抱いてしまったり、実際の私はブレブレだ。
しかし、友人と価値観や抱えている事情が違ったとしても、自分の考えを大切にして、自分の存在を認める勇気を、この本からもらった気がする。
今回学んだ「アート思考」で本当に幸せになれるのかは、まだ分からない。ただ、自分の興味を探求していく人生を、時にはブレながらも、自分の軸を探して生きていきたいと思った。