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自己紹介を兼ねたうつ病人生記録

 noteを始めて、書きたいことを書きたいようにしか書いていないが、うつ病を自己紹介として名乗るわりに、病気のことについては、あまり触れてこなかった。ひとえに病気のことを語ろうとすると、思い出したくないことまで思い出されて、つらいからだ。
 ただ、振り返りは必要なことのように思う。うつを通して顧みる出来事が、人生の大まかな記録になる気がする。今の自分の状態を把握するために、時系列でまとめてみようと思う。


中学生から高校生まで

 幼少期から12歳頃までは、平日は祖父母宅に預けられ、寝るときと休日にだけ家に帰る生活をしていた。しかし、私が成長するにつれて、祖母のうつ病が再発。当時は事情をよく分かっていなかったが、それから祖父母の家に行けなくなり、共働きの両親が留守にしがちな家で過ごすことになった。両親の家は、祖父母の家と違って、食事がきちんと出てこない。成績が良くても褒められない。逆に、勉強を妨害される。成績が良いと、父は不機嫌になった。
 環境が変わってしまい、従うべき評価基準が祖母から父になり、その二人の方針が食い違っていたために、とても戸惑っていたと思う。
 診断は受けていないが、振り返るとこの頃から、うつ的な症状が出ていた。症状を箇条書きすると次の通りだ。

  • 忘れ物がやたらと増えた
     健康診断の日に体操服を忘れて怒られたり等。

  • 新しい出来事をなかなか覚えられない
     小・中学生の終わり頃までは、成績が良い方だったのだが、高校から一気に落ちぶれた。同じくらいの成績の子が集まる高校で、一気に成績を落とすということは、よく聞く話であり、そういう影響もあるとは思うが、それだけでなく、授業を受ければ覚えられていたような内容が、頭の中を滑っていくようになった。

  • 本を読めなくなった
     文字を目でたどるが、同じ行を何度も繰り返し読んでしまう。それでも時間をかけて、なんとか見開き2ページを読み、ページをめくり、次のページを読もうとすると、もう前の内容を忘れてしまっている。成績とも関連する話だが、本が読めなくてつらかった。頭が悪くなってしまったんだと思ったし、本に集中できない自分の努力が足りないのだとも思った。

  • 肩こり・首こりが治らない
     10代前半から30代現在の今もそう。何でもいいから楽にしてほしい。

  • 耳鳴り・めまい・金縛り
     メニエール病の診断を数年前に受けたので、耳鳴りやめまいは、そのせいかもしれないが、うつ病の症状でも耳鳴りが出るらしい。高い電子音のような音が、頻繁なときで、週に3~4回出る。
     金縛りは疲労が限界を迎えたときに、寝ようとすると出る。しかも10代後半くらいから、幻覚や幻聴も伴うようになった。体が寝ながら、脳が覚醒しているようなものなので、そうなるらしいが、まあなるべく金縛られたくない。動けなくて怖いし。

  • とても疲れやすい
     出かけるために身支度をした時点で、すでに帰りたい。一日中寝ていたい。友人との楽しい予定のはずが、帰宅後疲れて何もできない。落ち込む出来事があると、数ヶ月単位で生命活動を維持する以外のことが出来ない。基本的に体が重く怠い。常に熱があるみたいに感じていた。

大学生になる

 両親ともに大学出だったことで、選ぶまでもなく進学が決まっており、勉強ができないのに、大学生になってしまった。そもそも高校選びの時点で普通科以外の選択肢がなかったし、よく分かっていなかった。
 大学へ行かせてもらえるということは、恵まれたことであったが、両親との生活を抜け出したいがために、大学受験と並行して、地方の短大の願書を書いた。母に手伝ってもらいながら願書を書いたが、それは出す前に、父に破り捨てられた。そんな父に、母は何も言わない。
 大学合格後に知るが、進学した大学は、父が中退した大学だった。父の過去の焼き増しをさせられているようで、入学初日にもう辞めたい。嫌々通い始める。
 この頃、将来を意識して、バイトを掛け持ちしていたが、すべて上手くいかなかった。エネルギーがないところで無理やりどうにかしようとして、次第に起き上がれなくなった。バイトをばっくれ、大学は単位を落としまくり。母の提案で、大学を休学しようとするが、取り寄せた休学届を父に破り捨てられる。母は何も言わない。デジャブ。
 起き上がれないので精神科へ行く。うつ病の診断をもらうが、父に「あなたは病気じゃない。怠けているだけ」という感じのことを言われ、通院できなかった。今思うと、医者の診断よりも、父の言葉を重視したのは異常であった。

自殺の予行練習をする

 大学へ行かないと父に叱責されるが、どうしても行きたくない。この頃、父から私への依存と支配が強くなり、社会へ出たところで、親から逃れられないのではという考えが浮かぶ。だんだんと希死念慮が頭をちらつくようになり、自殺の予行練習をした。過去に話題になった『完全自殺マニュアル』という本に影響され、首つりを選んで試してみる。その際に、睡眠薬を使いたかったが、合法的に手に入れる術はない。当てつけに父のネクタイを使う。

 試しなので、すぐやめられるように、地面に足がつく状態で、首に体重をかけた。想像してたよりも苦しい。意識を失うまで何秒かかるんだろうか。
 結局、死ぬまでに苦しい思いをする覚悟が決まらず、上手くすれば練習でそのまま実行できると思っていたが、その日は諦めた。
 後日、たまたま『生きぞこない』というタイトルの本に出会う。私と同じように『完全自殺マニュアル』から首つりを選んで、私とは違って、実行に至り、自殺に失敗した人のノンフィクションだ。

(新品はとんでもない値段になっているが、リンク先から中古で安く買えるし、おそらく図書館でも借りられる↓)

 この本の作者、北嶋一郎氏は元エリートビジネスマンであり、自殺未遂当時、50代半ば。本の構成は5章立てで、そのうちの4章前半までの内容のほとんどが仕事の話であり、エリートビジネスマンがいかに仕事に身を尽くしてきたか、どのようにその社会的立場から転落していったかに、ページ数がさかれている。
 学生であった私とは世代も事情も大きく異なり、ビジネスの話は正直よく分からなかった。外車に高級腕時計、立身出世のための不倫関係。語られる価値観が、出版当時(2012年)としても、前時代的で共感できず、不倫に限って言えば、文字通り、倫理的に受け入れられない。しかし、首つり自殺を選ぼうとした部分だけは一致した。
 そして、この本を読んで初めて、どんなに覚悟を決めて自殺しようとしたところで、失敗する可能性があることに行き当たった。北嶋氏は、自殺にあたって大量に飲んだ睡眠薬を胃洗浄するために、歯を砕かれ、入れ歯になったが、自殺未遂は歯を失うだけでは済まないかもしれない。医学的なことはよく知らないが、首を絞めたことで、脳に酸素がいきわたらず損傷し、体が麻痺して治らないかもしれない。もし体の大部分が動かなくなったら、自身の力だけで死を選ぶことすら不可能になる。
 『生きぞこない』を読んで、そんなことをつらつらと考えるようになり、内容には共感できなかったが、自殺は踏みとどまることになった。

学内カウンセラーと出会う

 大学を留年していたが、休学することも、辞めることも、父に許されず、大学へ行かなければならなかったが、どうしても行きたくなくて、ある日の朝、母の前で泣いて嫌がった。20代にもなって、泣いて登校拒否は恥ずかしかったが、もうどうしようもなかった。そして母に、学内カウンセラーはいないのかと問われ、そこで初めてカウンセリングルームの存在を知り、予約を取ることにした。
 それからしばらくは、カウンセリングのために大学に通い、授業は受けなかった。当時の私は、ただただ苦しいばかりで、自分の状態を上手く把握できず、好き嫌いが分からず、快不快も認識できず、他人との心の境界が曖昧で、親の問題と自分の問題を分けて考えられなかった。
 親の抱えるストレスを、自分のものとして一緒くたに抱え込み、それでいて、自分の喜怒哀楽をよく認識できなかった。私は覚えていないが、カウンセラーの先生に後から聞いた話によると、明らかに怒るような出来事の話に、「怒っていますよね?」と確認されると、無表情気味に「怒っていません」と否定していたらしい。
 カウンセリングを受けた効果として、自分の状態を客観的に把握できるメタ認知という能力が、ある程度身に付き、また、動揺しても正常な状態に戻れるような能力も多少は身に付いた。
 カウンセラーの先生は、授業を受けた方が良いとか、大学は卒業した方が良いとかは、一言も口にしなかったが、徐々に単位を取れるようになり、卒業論文を完成させ、在籍可能期間ぎりぎりに大学を卒業できた。
 そして何より、親のする事を、はっきり否定できるようになった。

父親との別居

 父の言う事や父の態度を、以前は極めて懸命に理解しようと努めて、どうしようもなく消耗していたが、カウンセリングを受けた影響で、それは間違っていたと思うようになった。父を否定することを、父当人に理解されることは土台無理であると思ったし、実際に少し話したところ揉めたので、母の方だけに、父のする事がいかにおかしいか訴えるようになった。
 計算してしたことではないのだが、結果として、母が父からのモラルハラスメントを被害として認識するようになり、父との別居を決めた。その母の別居に当然ついていくことにし、邪魔をされたくなかったので、父にはそのことを黙っておくように、母と約束した。
 しかし、母は私に嘘をついた。物件情報の書類を、父が見えるところに放置し、父にそのことを問われた結果、母はその物件を「娘が独立するための行き先」という事にした。
 確かに、私がそそのかしたようなものなのかも知れないが、この別居の主体は、あくまでも母だったはずだ。それなのに、私の責任にするのか。
 母には昔からそういうところがあった。先にも書いたが、私がやる事に母が協力しておきながら、父がそれに反対すると、不満をもっていたとしても何も言わない。父と喧嘩になった際に、母自身の言葉ではなく、私から母の立場を説明させようとするなど、母が父に対して、常に娘である私を矢面に立たせてきたことを、走馬灯のように思い出す。
 その出来事があったと母に知らされた日、父に傷つけられたくなかった私は、家に帰らなかった。一人暮らしの友人の家に泊めさせてもらい、父が仕事に行った隙に、家に帰り荷物をまとめ、逃げるように引っ越した。それと同時に、父が追いかけてこないように、母がついた嘘のシナリオに沿って、置手紙を残した。
 父の中では多分、一連の別居の流れが、父のもとで成長し、独立していった娘の物語という美談になっているのではないかと思う。それがお互い傷つかないから。
 一ヶ月後、独立した娘が心配だから、母がそれについていくというシナリオで、母も越してきた。母が越してきた後、別居の件で、約束を反故にされた事を、激しく責めた。
 母は言い訳のように、「お父さんに黙って出ていきたくなかったんだと思う」と自分の心情を振り返る。だったら、「父と向き合うべきは、私ではなく、あなただ」と私は怒った。向き合いたくないのか、母は黙り込むだけだった。
 そして、唯一できる罪滅ぼしのように、母が費用面で私の生活を支えた。私が欲しいのは、親による様々な意味での承認だと思うが、それは期待できそうにない。
 金銭的支援が助けになっているのは事実なので、否定もしきれない状況がつづく。

その後

 父と別居し、母と暮らした後、資格を取って就職したり、母から離れて一人暮らししたりしたが、根底に不安定さが残っているためか、長く働きつづけることができず、再び母と同居し、現在も生活を支えられている。
 父と同居しているときには叶わなかった精神科への通院を、一昨年の年末くらいから始め、病院を色々な都合で変えたりしながら、自立医療支援制度によって、医療費負担を抑えつつ、病院内でカウンセリングも受けている。今後、障害者手帳や障害基礎年金の申請もしようと思う。
 今年の5月に、病院側の都合で担当医が変わり、それによって処方箋も変わった。1年5ヶ月ほど、ずっと処方されていたトリンテリックスという抗うつ剤が、レキサルティという薬になったのだ。
 このレキサルティという薬を飲み始めてから、1週間ほどで気力が出てきて、勢いでnoteにアカウントを作り、現在に至る。
 このまま病状が回復していくかは、まだ分からないが、レキサルティと比べて、トリンテリックスにまったく効果を感じなかったので、今までの時間は何だったんだろうと思った。それに、これまでの人生と活動量が違ってきているので、戸惑う気持ちもある。病気と薬の影響下にある自分の精神は、どこからどこまでが本来の性格なのだろう。
 精神科の先生は、「今まで性格だと思い込んでいたことが、病気の影響である可能性はあるが、薬で性格が変わることはない」と言い、カウンセラーの先生は、活動量が増えた事について、「自分で選んでできている事を認めてあげて」と言った。
 さらに、カウンセラーの先生は、天気のように調子のいい日と悪い日が人にはあるのだから、病状に波が出ても焦らなくていいともアドバイスをくれた。昔の事を思い出した影響で、調子が悪くなるかもしれないが、できるだけあるがままに、落ち着いていようと思う。

 読んでくれる人がいるのか分からないが、父との関係については、できればまた違う記事で詳しく書きたい。

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