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僕だけのための本 | 『迷うことについて』

この広い世界には、あなただけのための本がある——。こんな話を聞いたことはないだろうか。「これは僕のことを言っているんだ」と思ってしまうような、考えや気持ちを丸ごと代弁している本のことだ。

実を言うと僕は去年、そんな一冊に出会ってしまった。

●『迷うことについて』(レベッカ・ソルニット、左右社)

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『迷うことについて』は、僕のように迷子好きの著者が「私にとって迷子になることはなぜ魅力的なのか」について綴ったエッセイだ。

「趣味は迷子になることです」。こんな自己紹介をしたことはこれまでないが、僕が何か趣味をあげるとしたら一番に思い当たる(二番は読書だ)。僕は迷子になることが好きだ。迷子はノスタルジアと冒険心を駆り立ててくれる。

僕がこんな自己紹介をしないのは、共感してくれる人に出会ったことが一度もないからだ。だが、著者はこの本で僕の考えを丸ごと代弁していた。

●小学生の迷子経験がはじまりだった

歩いているうちに、まるで見覚えのないような街路に迷い込む。辺りを見渡しても、知っている景色は何一つない。

帰り道さえ不明瞭になると、不安に駆られる。「もう二度と家には帰れないんじゃないか」そう考えると、いつも小学生のときの記憶がフラッシュバックする。

黄昏時、あまり知らない地域にある友達の家で遊んだ帰りひとり歩いていると、ふとここがどこだかわからなくなる。「家からこの道で来たんだっけ」と当てずっぽうに歩いているうちに、すっかりどこか知らないところに来てしまったのだ。

気づくと住宅街の、人気の少ない道にいた。友達の家から歩いてきた方向を見ると、行き止まりになっていた。(この方向じゃないのか、じゃあ僕はどこから来たんだ??) 頭の中が混乱して何も考えられなくなっていた。

目の前には広い駐車場があって、おばさんが2人世間話をしているのが見える。「あの人に聞けば道を教えてくれるかも」そう思ったが、当時の僕にその勇気はなかった。

静寂のなかに知らない大人の井戸端会議が響く。まわりには高層団地があって、声がやたらと反響していたのを覚えている。遠くで橙色の夕日が浮いている。「ひょっとしてもう僕は家に帰れないんじゃないか?」そう思ったとき、夕方のチャイムが街に響いた。カラスが鳴くから帰りましょう。僕は帰り道を知らない。

それから1人で帰るのが怖くなった、というのが普通かもしれない。だが、僕はこの経験をしてから迷子になることが大好きになってしまったのだ。

僕は迷子になるといつも、小学生の頃を思い出してノスタルジアをおぼえる。それとわずかなスリルも。幼い記憶に胸が締め付けられる感覚がたまらなく好きなのである。

実を言うと、「もう二度と家には帰れないんじゃないか」なんてことは、大人になってしまった今ではもう思えない。スマホと財布さえあればどこからでも帰れるし、なんとかなってしまうことを知っている。

けれど、僕はあえてそう思い込むことで、あのころの僕と重ね合っているのだ。

●迷子は「自分を脱ぎ捨てる」行為

『迷うことについて』の著者・レベッカ・ソルニットは、僕のようにあえて迷子になろうと思う人らしい。そしてこの本のなかには、そういう同類の人たちがたくさん登場する。

例えば、そのうちの1人が『灯台へ』の著者ヴァージニア・ウルフ。著者によれば、彼女にとって迷子は「名を捨てて誰か別の人になる」手段だったらしい。

"晴れた夕方の四時から六時くらいに家から足を踏み出すとき、わたしたちは友人が知っているような自分を脱ぎ捨てて、洋々とした匿名のさまよい人の群れに加わる。二、三分の間であれば他人の心身に扮装していられるのだ、という幻想を抱くにはそれで充分だ。"

もう家には帰れないかもしれない、という思いは、いまとなっては不安というよりも潜在的な希望なのかもしれない。

これまで僕が通ってきた道のり、行ってきた選択と時間がすべて消え去って、僕は"lost"(迷子になる/失う)ことができる。そこには僕の名前も、性別も、実体さえもない。

この本を読み終えたあと、ネットでレビューを漁っていると、「この本は私のための一冊です」と言っている方がいた。矛盾するようだが、この本は「僕だけのための本」であるし、他の誰かだけのための本でもあるんだと思う。

この「だけ」は決して誰かに強制するものではなくて、ただ僕がそう感じたということが重要なんだ。そしてそう感じさせてくれた『迷うことについて』と著者のレベッカ・ソルニットに感謝したい。

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