「私の死体を探してください。」 第11話
「たとえば行方不明の場合、離婚も簡単にはできないと思います」
「そんな。僕は麻美と離婚するつもりだったのに……」
「どうしてですか?」
「だって、君は僕の子どもを妊娠しているんだろう? だから、近々麻美と話し合うつもりだったんだ」
とても、大切なことだから離婚の話は慎重に進めたいと思っていた。僕は子どもが欲しいと思ったことは一度もないけれど、池上さんに子どもができたのなら責任は取らないといけないと思っていた。
池上さんは僕が真剣に話しているのにぷっと吹き出した。
「ああ、あれ、嘘です」
「え?」
「妊娠なんかしてません」
「え! 本当に?」
「はい」
「どうしてそんな嘘をついたんだ! 酷いじゃないか。僕は真剣に悩んでいたんだぞ」
池上さんの目には反省や罪悪感は少しも浮かんでいなかった。
「もう、いいかげん、こういう関係はやめたいと思っていたんです。それで、めんどうなことになってしまえば、正隆さんはフェードアウトしてくださるんじゃないかなあと思ったんです」
「そんな……。僕は君との未来を真剣に考えていたんだ。だから、作品作りだって頑張ったんだ。君だって応援してくれただろう?」
「未来ですか……。すいません。申し訳ないんですけど、私の未来に正隆さんはいません」
「どうして?」
池上さんはふてぶてしく鼻で笑った。
「どうしてって、本当に分からないんですか? 私は正隆さんに最初から恋愛感情なんてなかったんです。最初にセックスした日のこと、覚えてます?」
「覚えてるさ、一緒に代官山のダイニングで食事しただろう?」
「そういうところですよ」
「は?」
「妻の新人の担当編集者が逆らえないのをいいことに、夜に食事に誘うなんて。本当にどうかしてますよ」
「逆らえない? そんなことはないだろう? それに君だって……」
「ええ。あの時の私もどうかしていたんです。断ろうと思えば断れました。断らなかったのは確かに私です。弱い気持ちもずるい気持ちも確かにありました。でも、だからって、ずっとどうかしたままでいられるはずもないんですよ」
池上さんはまるで僕が彼女をむりやり手籠めにでもしたかのような言い草だった。
被害妄想も甚だしい。確かにあの日、部屋を取っていたのは性急かもしれないとは思ったけれど、それは単に大人の男としての備えに過ぎない。簡単についてきたのは他でもない池上さんだった。
僕は彼女のことがよく分からなくなった。
「君は正気だったら僕と付き合っていなかったって言いたいのか?」
「正気かどうかというより、森林先生が亡くなってしまった今、もう、とにかく正隆さんとの関係は誰にも知られたくありません」
「ちょっと! 池上さん、麻美はまだ死んだって決まったわけじゃないだろう?」
僕がそう言うと、池上さんは「わっ」と声をあげて泣きはじめた。
「正隆さん。森林先生のブログちゃんと読みましたか? あれがどういうことだか分からないんですか?」
「ちゃんと読んださ! 麻美はこともあろうに母さんをマルチ商法か何かにハマるように仕向けて、自分で三千万も母さんに貢いだんだ。何がしたいのか分からない」
池上さんはまだ泣いていた。かなり興奮した状態であえぎながらこう言った。
「大事なことがなんにも分かってないじゃないですか。義理の母親を自分で罠にはめたことを告白することが作家である森林先生にとってどういうことか分かってないじゃないですか。先生はご自身の職業倫理を犯したことを告白したんです」
「職業倫理? 麻美にそんなごたいそうなものがあったかどうかなんて、分かったもんじゃない。あいつがこの別荘の地下室でどんなことをしていたか知っているのか?」
「豚の解体をしたことがあることくらいは知ってます。死体の解体の描写の参考にしたとご本人がインタビューでお話しされていました。ファンの間では伝説になっています」
「その場にいたんだよ僕は! 斧を振り回す麻美は狂っているんじゃないかと思ったよ」
「ちょっと眉をひそめたくなるようなことであっても、作品に必要だと思われた経験を積むことと、今度のことは全く違います。森林先生は作品で使うべきの手段や事情やトリックを実際に正隆さんのお母さまに使ったんです。それは読者に対する裏切りです」
「どういうことだ?」
「死ぬから、これ以上作品を残すこともできない。だから本当にやったことを書いた。先生がやったことと、正隆さんのお母さまがしたことを天秤にかけても、批判や非難、中傷の対象になります。へたをすれば不買運動だっておこるかもしれません。でも……」
「不買運動が起きたとしても、麻美が死んでいたとしたら、麻美には関係ないってことか死人に口なしならぬ耳なしってとこだな」
「あのブログを読んで、森林先生は本当に亡くなったんだと私は確信しました。小説家が作品を世に出せない状況を自分で作るなんて、ましてや森林先生がそんなことをするなんて、どう考えてもありえません。ありえないことが起きたということは、先生はもう……」
池上さんはまた泣きはじめた。
そうだろうか? そういうものだろうか? 僕は麻美だったら、人を驚かすためだったらなんだってやったんじゃないかとさえ思う。この別荘の地下室の麻美の仕事部屋の隣の部屋は、麻美の実験室でもあった。血まみれになりながら、豚を解体し、斧で豚の頭の骨を割っていたのは、どんなに忘れたくても忘れられない。
見るんじゃあなかったと今でも後悔している。
それだけじゃあ、飽き足らず、知人のつてを使って、人体の解剖や検死の見学にも行っていた。本当に必要なことだったのか、本人の好奇心を満たすためだったのかは今も疑問が残る。
3Dプリンターでどこまで何が作れるかを実験しはじめたときの不穏さも忘れてはいない。モデルガンを作って、それを見入っていた麻美の目の中にあった危うさを池上さんは見ていないのだ。
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