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「越境」という言葉

本日、株式会社TOITOITOが運営する「osanai」に、ドキュメンタリー映画「シャドー・ゲーム〜生死をかけた挑戦〜」のテキストを掲載した。

執筆はエッセイスト/ライターの碧月はるさん、イラストは水彩作家yukkoさんに担当いただいた。

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第18回難民映画祭2023でオンライン上映されていた本作には、10代の若者たちが登場する。アフガニスタンやパキスタンなど、戦争や紛争において身の安全が保証されていない若者たち。

国に留まっていたら殺されるかもしれない。かといって、越境は危険との隣り合わせだ。地雷、国境警備隊員からの暴行、衛生環境の悪さ。悪質な密入国の斡旋業者に出会うと、金だけ奪われて移動中に捨てられることもある。彼らは文字通り、命を賭けて、中東やヨーロッパを渡り歩きながら安住の地を求めるのだ。

そんな彼らの生き様を見ていると、僕たちが普段使っている言葉の「軽さ」に恥ずかしさを感じる。タイトルにも書いたが、「越境」という言葉を、僕はもう日常生活では使うまい。

例えば越境学習という言葉は、リスキリングの文脈で、「普段の仕事と異なるジャンルのスキルアップを目指す」とか、「職場以外の経験を重ねることでキャリアアップに活かす」とか、そんな感じで使われている。僕自身も「〜〜を越境して」みたいな感じで使っていたから偉そうなことは言えないが、ずいぶん軽い言葉ではないか。もちろん越境学習(越境ECとかもそうだな)ということで、本気になってサービス開発をしている人もいるのは理解しているつもりだ。でも、命を賭けて国を越えようとしている人たちの姿が頭に浮かんでしまえば、「越境」という言葉を安全地帯にいながら使うわけにはいかなくなってくる。

やや偏屈な見方かもしれない。辞書などで調べれば、「国境を越える」以外の意味で用いられることもあるのは明白だ。明白だが、それはそれとして、僕が普段生活する上で、別の意味合いで語用できるかはまた別の問題である。

3年前に僕は「ブラック企業」という言葉を使わないと宣言した。

誰かのスタンダードが、誰かの悲しみを招いてしまうことは往々にしてある。言葉やコミュニケーション、クリエイティブ領域で仕事をする以上、「誰も傷つけない」なんて現実的ではない。

だけど、できるだけ言葉には真摯でいたい。

生死をかけて、越境を試みる若者たちの姿は、そう決意させるのに十分すぎるほどの説得力を有している。

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映画祭は終了してしまったので、本作を普通に鑑賞することは難しいかもしれません。でも、ぜひ碧月さんのテキストを読んでいただき、機会があれば本作を観てもらえると嬉しいです。

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