苦悩をともなった自由を選ぶ覚悟があるか(100分de名著:アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』)
いくつもの正しさが闊歩している現代において、「正しさ」について議論するのはもはやタブーになっている。
多様性は、もはや免罪符のようなマジックワードになり、他人がどのような見解を持っていても「他人は他人、自分は自分」と割り切るようになってしまった。
今もさして変わらないと自覚しているが、自分の主張はずいぶんと未成熟で、ところどころロジックが破綻している。
それゆえ、10代、20代の頃の僕は、どちらかというと「つっこまれる」タイプだった。「ほりそう、それは違うよ!」と指摘され、飲み会のたびに憤っていると、更にバランスの悪さを指摘された。
当時は真剣に腹が立っていた。それゆえ指摘してくれた方と距離を置いてしまい、結果的に人間関係に支障が出てしまった。不徳の致すところだ。だけど今は、そうした指摘を(いくぶん妥当性に欠ける指摘もなくはなかったが)もらえたことは有り難かったと思っている。
「正しさ」とは、何本もの「正しさ」のラインを交差させることによって、同じように見えるロジックもより洗練された「正しさ」に変わっていく。それは赤子が伸びやかに成長していくように、オープンネスと普遍性をまといながら、視座を高めていく。
もちろん赤子の成長とは違って、「正しさ」を洗練させるためには、苦悩や失敗を積み重ねなければならない。
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アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』は、第二次世界大戦中、ソ連軍に従軍した女性たち500人以上の証言を編み、証言文学として高く評価されている作品だ。2015年にノンフィクション作家として初のノーベル文学賞を受賞している。
僕は「ソ連軍に従軍した女性たち500人以上の」というのがあまりイメージができなかったのだが、1941年6月の国家防衛委員会司令により、100万人近くの女性が従軍となったという。スターリンのプロパガンダにより、若い女性が自ら志願し、様々な任務を遂行する。
例えば、狙撃兵として従軍したマリヤ・イワーノヴナ・モローゾワは、こんな風に語っている。
女の子たちは言ったの、「前線に出なけりゃいけない」。そういう空気が満ちていた。みんなして徴兵司令部の講習に通った。(中略)実践用のライフル銃の撃ち方や手榴弾の投げ方を習っていた。それまではライフル銃に手を触れるのも怖かったわ。いやだった。誰かを殺しに行くなんて想像もできなかった。ただ前線に行きたい、それだけ。(中略)
それから私たちは前線に到着した。(中略)私は撃つことに決めたの。そう決心した時、一瞬ひらめいた。「敵と言ったって人間だわ」と。両手が震え始めて、全身に悪寒が走った。(中略)ベニヤの標的は撃ったけど生きた人間を撃つのは難しかった。(中略)私は気を取り直して引き金を引いた。彼は両腕を振り上げて、倒れた。死んだかどうか分からない。そのあとは震えがずっと激しくなった。恐怖心にとらわれた。私は人間を殺したんだ。(中略)
これは女の仕事じゃない、憎んで、殺すなんて。
(100分de名著:2021年8月 アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』P11〜12より引用、太字は私)
マリヤ・イワーノヴナ・モローゾワは、最終的に75人を殺し、11回表彰を受けたという。
この作品で拾い集められた言葉は、このような切実な痛みを伴っている。
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NHK「100分de名著」の解説を務めた沼野恭子さんは以下のように評している。
アレクシエーヴィチは、それまで周縁に置かれ、劣ったものであるとされてきた「女の語り」に、むしろ革新性と真実味があると感じたのでしょう。これは、欧米のフェミニズムの思想とも響き合うものがあると思います。
(100分de名著:2021年8月 アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』P45より引用、太字は私)
そもそも彼女は、なぜこのような「面倒な」ことをしたのか。数人にインタビューをすれば済むかもしれない。数人は少なくとも、500人以上というのはかなり多いように感じる。沼野さんは以下のように語る。
彼女は、どの著書でも、何十、何百という人に取材しています。その都度、証言する人に寄り添って深く共感しているのですが、多くの人に話を聞くので、さまざまな立場を理解しています。数多くの声を聞くことで、誰か特定の一人にスポットライトを当てることにはならないのです。
一人だけに共感してしまうと、その証言と矛盾する証言が得られた場合、後者の証言を「間違ったもの」として排除してしまうかもしれません。しかしアレクシエーヴィチは、一人ひとりに共感し、互いに矛盾する証言があっても、それをあるがままに受け入れます。そうすることで、無数の声が全体として一つの有機体、生き物のようになって、お互いの矛盾しているところを少しずつ浄化していくと彼女は語りました。証言を足すことでその有機体は成長したり、時に自己浄化していくのです。
(100分de名著:2021年8月 アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』P90より引用、太字は私)
エビデンスをもとに史実を検証する手法は、社会学や歴史学の中でも当然多用されるけれど、アレクシエーヴィチは徹底的に定性情報を集めた。そしてそれを文学の形にアウトプットしたのだ。
1本の矢はすぐに折れる。しかし、3本の矢は折れない。
それと同じ論理で、500人のリアリティのある証言を前に「これはフェイクだ」「捏造だ」ということはなかなかできないだろう。例え為政者や権力者にとって不都合な情報があったとしても、作家であるアレクシエーヴィチに分があると言える。
そしてそれは同時に、読み手に、戦争の悲惨さや悲痛さを、ダイレクトに伝えていく。NHKテキストの抜粋された中であっても、読み難い場面に何度も遭遇した。
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こうしたことに対して、正直なところ、僕は目を背けて逃避できたらと思う。
ソ連で何が起こっていたとしても、アフガニスタンで何が起こっていても、9.11で失われた何かに目を背けても、僕には「関係ない」で済ませることの理由がある。
僕がいる場所は日本であり、僕は日本人だ。国際社会における喫緊の課題に目を背ける権利がある。それらは「誰か」が秘密裡に解決してくれれば構わなくて、僕らはあわよくば「タダ乗り」できれば良いのだと。
だが、物事は繋がっている。
同じ地平で、同じ枠組みの中で、巡り巡って僕のもとにやってくる。それらを抑止するためには、目を開いていなければならない。
僕は、進んで痛みを引き受けようと思う。知るために、理解するために、それらを次世代に伝承していくために。
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最後に、アレクシエーヴィチの言葉を引用してnoteを終わりにします。ここまで読んでくださり、ありがとうございまいた。
物質的な豊かさと自由のどちらを取るか、つまり「自由かパンか」という問題は、普遍的なものです。百年以上前、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』中の叙事詩「大審問官」で提示したのも、この問題にほかなりません。この中で大審問官は「人間を幸福にするには地上のパン(=モノ)を与えればよい、天上のパン(=自由)は人間には耐えられない」と言い、キリストはそれに対して「人はパンだけで生きるのではない」と答えます。
アレクシエーヴィチは、この問題に対して、こう言います。
「人は常に選択しなければならない。苦悩をともなった自由か、それとも自由のない幸福か。そして大部分の人が後者の道を歩む」。
(100分de名著:2021年8月 アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』P99より引用、太字は私)
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*おまけ*
100分de名著 アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。
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