老いて、再出発を繰り返す人生を。(東浩紀『訂正する力』を読んで)
プライドのようなものをいくつか持ち合わせている。
生きる支えになることも多いが、気付けば重荷になって身動きしづらく、人生の軌道修正ができなくなることが増えていた。
なんて、もったいないことだろう。そんな中、東浩紀さんの「訂正」という考え方は大きなヒントとなった。
『訂正する力』
(著者:東浩紀、朝日新聞出版、2023年)
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いつからだろう。
「ぶれない」ということに価値を感じる人が増えたように感じる。
自分の意思を貫いて、結果的に「結果」を出す。有言実行。もちろん素晴らしいことだ。だけど僕は、そういった姿勢には常に危うさを感じてしまう。それは結果が出なかったときのリスクという意味でなく、「結果」さえ良ければ何をしても構わないという傲慢な姿勢によるものだ。
『訂正する力』の著者、東浩紀さんは「日本にいま必要なのは、『訂正する力』だ」と説く。
物事を前に進めるためには、やみくもに今までの蓄積を否定するのではなく、過去をポジティブに再解釈し、現在と過去をつなぎ直すような柔軟な姿勢が大切。「ひとの意見は変わるものだ」という認識をみなが共有し、現実に即しながらアウトプットしていく──それが本書における「訂正の力」の趣旨だ。
間違いを訂正するのは、何だか後ろめたい。
恐れや恥ずかしさを感じるから、何やかや理屈をつけて、元の意見を正当化しようとする人は多いのではないだろうか。
しかし東さんは、訂正は自らの行動を変えるチャンスにつながるという。「あれ、違うかな」といった違和感を自覚できれば、より適切な表現をつくることができる。すなわち、人としての成長が実現できるというわけだ。
ぶれない力を過信し、アイデンティティ化したことによって議論が硬直してしまっている。その結果、じわじわと「訂正を許容しない土壌」ができあがってしまっている。
1997年のテレビドラマ「総理と呼ばないで」では、自らの非を認めて謝る総理大臣(演:田村正和)の姿が映されている。ドラマの設定上、総理は史上最低の支持率を記録してしまっているが、現実に即して自分を訂正していく姿に、人間としての成長を認めた視聴者は多いはずだ。
東さんは、このようにも記している。
あやまるとは、「謝る」「誤る」と記述できる。
なるほど、それぞれは必ずしも汚点だけという意味ではない。訂正するための契機につなげられれば、長期的には成功に至るかもしれない。
過ちを、否定ばかりしてはいけない。もちろん過ちは真摯に反省すべきだが、大切なのは「こりゃだめだ、訂正しなければ」と思うことである。
本書は、日本の現状を憂う哲学者 兼 経営者が、読者に「生きていく」ことの本質を告げる手紙のようなものだと、僕は捉えた。
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本書でも言及されているゲンロンカフェ。
最近配信された、参議院議員の猪瀬直樹さんをゲストに迎えた以下のエピソードも話題になっています。
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