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「うしろめたさ」を感じるのは、世の中のアンフェアネスに自覚的であること(松村圭一郎『うしろめたさの人類学』 を読んで)

唐突な話、最近、「うしろめたい」という感情を抱かなくなっている。

「うしろめたい」なんて、別に大した感情ではないのでは?

だが、松村圭一郎『うしろめたさの人類学』を読むと、実は人間にとって「うしろめたさ」とは替えのきかない感情だということが分かる。

つまりは、「もしかしたら僕は、他者に対する共感が低くなっているのかもしれない」という話に帰結するような。

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「うしろめたさ」とは、不公平や不均衡に自覚的であること

不公平や不均衡は、可能な限り是正した方が良い。

生まれながらに、将来の境遇が決定されてしまうのは、明らかにフェアではない。「親ガチャ」という言葉が流行しているのは、生まれた子どもは親を選べず、結果として生命が脅かされるほどのリスクさえ生じていることを意味している。

また市場にもルールが必要だ。例えば独占禁止法は、競合他社の参入を許さず、ひとつの企業が利益を独占するというものだ。競合他社がいないことによってプライシングを企業本位で決めることができるため、消費者や取引先が不利益を被ってしまう。

それらを是正するために「きまり」が必要だ。国や市場が「きまり」を作り、不公平や不均衡が生じないようにするのがセオリーだ。

だが松村さんは著書の中で、「仕組みには限界があり、個人のコミュニケーション・レベルでの対処がどうしても必要だ」と説く。

若者が優先席に座って目の前にお年寄りが立っていれば、少なくとも周囲の人に「図々しいよな」とか、「恥ずかしいな」といった「共感」のスイッチが入る。電車が揺れるたびにそのお年寄りがふらふらでもしていたら、気づかないふりをしていた人のあいだにも「うしろめたさ」が生じるだろう。
電車のなかはお互いの様子が見えるので、どちらかといえば共感が生じやすい空間だ。病気にしても、貧困にしても、世の中には表に出ない不均衡があふれている。ある程度までは国が制度をつくって対応しないといけない。でも、制度が整えば整うほど、国がやるべきことだとか、うまくいかないのは制度の不備だとか、個人が責任を回避する口実も増える。「制度」に頼りすぎるのもよくない。国や市場のやることには、かならず抜け落ちる部分があるのだから。

(松村圭一郎(2017)『うしろめたさの人類学』ミシマ社、P173〜174より引用、太字は私)

つまり「うしろめたさ」を感じることは、個人が適切な倫理性を有しているかの試金石になり得るということだ。

コロナ禍当初は、欧米や途上国で死者数が増えていたことに対して同情の念を抱いていた。だが2年経ち、コロナ禍の日常が「ふつう」になってきた中で、こういった他国へ想いを馳せることは難しくなりつつある。

実際に、日本人の海外渡航は激減した。交流が少なくなったことにより、その傾向は加速しているように思う。これをナショナリズムなどの愛国主義と結びつけるのは論理の飛躍だろうが、その危険性の萌芽は顔を出しているように僕は思う。

共感を遮る、「交換できる」という便利さ

出典元は忘れてしまったのだが、誰かのラジオかPodcastで「Netflixを2倍速で観るのはなぜか」ということが語られていた。

いわく、

・作品の筋が追えれば良い
・作品を視聴することで生じる感情・感動は、むしろ邪魔になる

というものだ。作品のあらすじを知りたいという需要は分かっていたことだ。1冊の本を10分で読めるような、本要約サービスがあるけれど、効率的に情報収集したいというニーズは昔からあった。

だが、映画を観る上での醍醐味である「感動」が、むしろ邪魔になるというのは驚きだった。感情が一定に保たれるのが「良い」とされて、過度に喜んだり悲しんだりすることでメンタリティが維持できないということらしい。

ひどい時代になってしまったと、悲嘆する思いに駆られる。

いまの日本の社会では、商品交換が幅を利かせている。さまざまなモノのやりとりが、しだいに交換のモードに繰り入れられてきた。それは、面倒な贈与を回避し、自分だけの利益を確保することを可能にする。厄介な思いや感情に振り回されることもなくなる。
しかし、この交換は、人間の大切な能力を覆い隠してしまう。

(松村圭一郎(2017)『うしろめたさの人類学』ミシマ社、P34より引用、太字は私)

そういう人ばかりではないだろう。

むしろ感情に実直である人の方が多いはずだ。

だが確かに、何かを見たときに「かわいそう」「貧しそうだ」といった感情を抱くのは失礼とされるようになってきたように思う。近所付き合いがなくなり、お節介を焼くおばさん・おじさんも少なくなってしまった。

そういった感情を、論理で抑制するのが適切な場面も、もちろんある。どんなことでもバランスが大事だ。とはいえ個人が「困っている」ことに値段をつけ、それを労働という対価で応えようというサービスが増えてきたのも確かである。そこにはもちろん「ありがとう」という気持ちはあれど、「お金を払ったのだから当然だろう」という思いも、当然ながら見え隠れするのだ。

ポーカーフェイスであることを放棄して、人間は進化してきた

興味深かったのは、霊長類学者・山極壽一さんの引用だ。

霊長類学者の山極壽一さんによると、ゴリラなど人間に近い霊長類でも、ほとんど白目がない。これは相手に感情を読みとられないようにするためだ。人間は進化の過程で、あえて白目の部分を大きくし、瞳の動きを相手にさらすことを選んだ。そうして互いに感情を示しあい、共感が生じる可能性を身体的に保証することで、社会的な存在となってきた。(中略)
いろんなモノや人がひとつの輪としてつながることで、その輪の一部を構成する「わたし」に感情が生じていると言ってもいい。交換や贈与というモノを介したコミュニケーションは、まさにその「輪」をつなげたり、切り離したりする行為なのだ。

(松村圭一郎(2017)『うしろめたさの人類学』ミシマ社、P60〜61より引用、太字は私)

当然、進化の過程において情報社会の到来は予期できていなかった。

しかし注目すべきは、これまではずっと「生き抜くためにはお互いが共感できるようにする」ことが大事だったということ。これがなければ、もっと、悲惨な民族闘争が行なわれ理解し合えない者同士が殺戮し合ったということがあったかもしれない。

あなたは嘘がつけないよね

そう言われるとき、その人の正直さを馬鹿にするような響きもある。だけど本来、その人は、人類が生き抜いてきた過程で大切な資質をきちんと有しているということの裏返しでもある。

共感、そして、うしろめたさ。

その意義を、少しだけ見直してみることで、社会の「おかしさ」に気付けるかもしれない。

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*Podcast*

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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