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【現代文】作者にも 作者の気持ち 分からない

 「となりの芝生の色なんて、どうでもいいんだよ。他人と比べても自分は1ミリも変わらないぜ。己より能力の高い人を妬ましく思ったところで、また逆に、己より能力の低い人を蔑んだところで、己の能力が高まるわけじゃない。そう思えるだけで『外』を見る時間を『内』つまり自分の内面を見る時間に変えることができる。自分を磨くというのはそういうこと。いいか、自分は『磨く』もんなんだ。『探す』もんじゃない。『自分探しの旅』に出たところで、旅先の何処にも『自分』なんて転がってないぞ。
 それが旅だろうが日常だろうが、確かに『外の世界』によって新たな自分を発見することはある。ただし、これはな、理屈っぽいかもしれないけど、こういうことだ。知らない土地や文化や友人から影響を受ける。次に、一人になって自分なりにその影響をどう処理するか考える。そして自分の人生で大切にしたい『心柱』を築いていく。というプロセスの一部分を象った比喩が『自分探しの旅』だ。自分という物は、自分にしか作れない。自分を作るのは『外』じゃなくて『内』。だから、他人を観察するのは大切だけど、孤独になって自分を観察するのも同じくらい大切なんだ。
 そんなことは分かっていると言うかもしれないけど、人間なんて頭脳と行動がリンクしないことばかりだから、本当に『外に自分が転がっている』って勘違いしてしまうものなんだ。小説は作り話だ。事実を材料にすることもあるけど架空の話だ。私たちは事実の中で生きているのに、どうして小説を読むのか。もちろん宿題だから仕方なく読む。もしくは本の好きな人なら趣味として読書する。暇つぶしに読む。理由は様々で、正解なんてない。但し、少なくとも『宿題』として読んだ場合は、守ってほしいことがある。わざわざ『自分探しの旅』に出なくても、私たちの何十倍も人生経験を重ね、何十倍も孤独の内に自分を見つめて、何十倍も表現力の豊かなプロの作家が、すでに『教科書』を用意してくれているのである。教科書を読んでいる間は自分一人だから『誰にも会わない旅』ができる。読んでいるその時間がそのまま孤独だから、すぐに心柱を築く工程に入ることができる。教科書に書いてあるストーリーを材料に、生涯未完成の心柱のどの部分までを築くことができたのか、それを読書感想文として報告してほしいんだ。趣味や暇つぶしで小説を読むなら、先生なんにも言わない。けど、『宿題』には意味があるんだ。宿題だから仕方なく小説を読むときには、この約束だけは守ってほしい。いいな。」
 
 小説でも映画でもドラマでも、主人公がいて、その親やら友人やらが登場して、そこまではいい。でも、その恋人やら配偶者やらが登場すると、感情移入や共感ができないのである。もちろんストーリー展開や本人の心情に「まあ、こうなんだろうな」という常識的な解釈や表面上の想像をすることはできるが、根っこの部分で物語に入り込めないのだ。それは「あなたにも恋人や配偶者ができれば分かることさ」というのとは少し異なる。当事者になれば感情移入が可能になるといった粗末なレベルではなく、私は高校の読書感想文という宿題を通じて、自分の限界の1つを知ったのだった。「高校生の若さで自分の限界を自分で決めるもんじゃない」「無限の可能性を自ら閉ざすもんじゃない」といった生ぬるい説教でカバーできるような粗末なレベルではなく、自分の手元には始めからその扉を開ける鍵がないことに気が付いたような感覚だ。
 
 だいたい人間、高校生まで18年も生きてりゃ、自分がその後どういう人生を歩んでいくのかということくらい大方は想像がつくものじゃないか。だって、18年かけて読んだ小説って何冊?観た映画やドラマって何本?小説・映画・ドラマの全てに全く興味がないと拒絶するような人でない限り、もうそれなりの数には達しているよ。なのに、親子愛や友情には共感できても、恋愛や夫婦愛には共感できないということは、それが自分の人生には「縁」のない領域だからである。「経験すれば共感できるようになる」のとは違って「そもそも縁遠い」のだ。スキとかキライとか、くっつくとかくっつかないとか、他人同士がそういうまだるっこしい状態になっているのを見ていると「こっちも忙しいんだから、どうぞご勝手に」と感じてしまうような人なのだ、たぶん私は。共感どころか、つまらないとすら感じ、極端に言えば、読む前、観る前から関心が抱けない人なのだ、たぶん私は。
 
 「共感なんて、しても、しなくても、どっちが正解というわけじゃない。他人の、しかも架空の語なんだから。共感にこだわるのではなく、他人の影響から自分の心柱を築けるかどうかにこだわれってば。『私にはあなたの気持ちが分かりません』と登場人物に呟いた時点で、もう諸君は登場人物の一人に加わっている。それだけでもう十分に感情移入している。それが感情移入の限界だ。登場人物の気持ちなんて、読者の受け取り方次第なんだから、作家の筆を離れた時点で、作家自身にも分からないんだ。
 ストーリーが面白くなかったら『面白くありませんでした。なぜなら・・・』って報告すればいいんだよ。『とても勉強になりました』なんてウソをつくな。世の中、そんなろくでもない感想文を書く奴に満ち溢れているんだから、高校生のうちはホントのことを書きなさい。ウソはオトナになってからでも沢山つけるから、偽りのない自分を見つめる作業を怠るな!」・・・やはり国語の先生っていうのは、コトバに迫力があった。
 
 若いうちから、自分の「限界を作る」のではなく「限界が分かる」ようになれば、これは言い換えれば「自分の可動域が分かる」ということになる。私は読書感想文にウソを書くことを自分に禁じた。自分の可動域を知りたかったからである。人生において、自分が「諦める領域」と「頑張る領域」を早く見極め、自分が「現実」の中で「実現」できることを探る作業は、必ずしもつまらないことではなく、むしろ人生を楽しむ可能性を秘めた作業である。オトナになるというのはそういうこと。
 「足は速くないけど、泳ぐのは速い」とか「計算は苦手だけど、英語は得意」とか、そういうのと同じことで、「親子愛は分かっても、夫婦愛が分からない」人間がいても、全くおかしいことではなく、私もその一人だというだけのこと。つまらぬ劣等感を抱かず、自分の「心柱」に誇りを持ち、逆に他人の人生を卑下することもなく生きていれば、それでいいのだ。
 
 「先生、最初に言ったよな。となりの芝生の色なんて、どうでもいいんだよ。『生まれながらにして金持ちの人間の気持ちが貧乏人には分からない』とか『生まれながらにして健康な人間の気持ちが病人には分からない』とか、そういうのと同じなんだから、他人もよく見て、自分もよく見て、けれど、そこに比較と評価は不要なんだ。
 だいたい現代文なんていう授業はな、英語じゃねえんだ。日本人が日本語を勉強してるんだぜ。だから、小手先の技術を身につけるんじゃなくてさ、自分たちの今後の人生で最も使用頻度が高い言語によって自分を磨く力を養ってみろよ。そうでもしなけりゃ、そりゃあ、英語の授業のほうがよっぽど役立つってば。」
 ・・・その通りだった。リアルに感じないものを無理矢理リアルに引き寄せることはできない。至極真っ当だ。真っ当なのであるが、では、私の「心柱」を構成するリアルって何?その問いに答えてくれたのは、意外にも「スポ根ドラマ」だった・・・つづく

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