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【美術】筆にぎり 感ずるままに 描くもみじ

 「例えば『世間話』が出来る人って、実は凄い人なんだよね。世間話が出来るっていうことは、『世間』を知っているということ。世間を知っているっていうことは、世間を見つめる能力と意欲を備えているということ。その能力と意欲っていうのは、まず『自分』を見つめるところから備わるものだよ。
 はじめっから『自分』なんて無いのだから、『つまらない人生だな』と思ったときは、面白がって自分を見つめながら、勝手に『自画像』を描いてみると、ほんの少しでも『つまらない人生』から解き放たれるよ。やってみな。今すぐパレットを手にして。粋がって生きたって、誰だってどうせ骨になるのだし、生きている今でも誰だってどうせ同じ。目も耳も2つで、口は1つ。全員同じなら『自分らしさ』なんて要らなく思えてくる。自画像を描く前のキャンバスは全員真っ白。一度、自分を無くしてみたら?すると、自分の価値観の狭さにも気付けるようになるし、自分と異質な他人も許容できるようになるし、自分を無くせば無くすほど、逆に自分の使える絵具の色が多くなって、それが『自分らしさ』になってくるよ。
 すぐに君たちは『自分』を気にして『何か行動を起こさなくっちゃ』と焦るけれど、そんなに気になっている『自分』って何?誰かから見られている自分かな?そういうことを『いったん立ち止まって考えてみる』のも『行動を起こすこと』の1つなんだよ。自分を見つめ、他人を見つめ、世間を見つめるんだ。他人や世間から『何ジロジロこっち見てんだよ!』と怒られたら、口では『ごめんなさい』と謝りながら、心では『やった!怒られた。腹を立てられるほど、私は他人や世間を観察することができているんだ』くらいに面白がったらいいんだよ。まあ、やり過ぎると痛い目に遭うけどね。
 そもそも人から言われたことを気にするっていうことは、自分もそうだと思っているからだよね。図星ってやつね。本当に納得しているなら、それでいいけど、納得できないのに、他人や世間から言われたことが気になる場合は、観察の対象をもう一度『自分』に戻してみるといいよ。少なくとも、人から言われたことで自分の弱い心が出現しただけのことなんだから、その弱い心を他人の発言のせいにしてはならない。世間の目は冷たいけれど、その目をどのように捉えるのかは誰でもない自分自身。自分の弱い心を教えてくれた他人の言葉に敬意を払うのも自分自身。そういうことをきちんと自覚できれば、いちいち人の言うことを気にしない冷静沈着な自分になれる。そういう心の持ち様を『自画像』に表現してみるとね、不思議と絵を描くのが不得意な人でも味のある仕上がりになっていくもんなんだよね。」・・・美術の先生は常に穏やかな表情、穏やかな眼差し、穏やかな声で人生を説いた。しかし、その説く内容は、常に人生から目を背けない厳しさを持っていた。
 
 「モノそのものを観て、感じろということ。器を観たときに『ああ、これキレイだな』と口にしてしまう直前の純粋な感覚が大切。私たちは、器をパッと目にした瞬間、その色や形、光沢や質感を同時に受け止めることができるけど、次にそれを言葉で『厚みのある漆黒の茶碗』などと説明すればするほど、初めに感じられた世界を狭めてしまう。ましてや『著名な陶芸家○○先生の晩年の傑作です』などと聞かされてしまうと、もう純粋な目でそれを鑑賞することなど出来なくなってしまう。
 ふと入った食堂で、注文した定食が美味しかった。その1口目を運んだ時の『おお、これ旨いな』は、その日の体調とか気分とか色々混じり合って感じるものだよね。その感想や評価を言葉で述べるのは、そりゃあ仕事で仕方なくやっている人もいるんだろうけど、せっかくの美味を台無しにしてしまう行為なんだな。」・・・あれから四半世紀が過ぎ、出された店の料理を熱いうちに食さず、写真ばかり撮ってはネット上に公開している人が世の中で普通になった。そりゃあ仕事で仕方なくやっている人もいるんだろうけど、私の考えは先生に賛成だ。ひたすら美味しいという感覚を大切にして器を空にする。それが今の「私らしさ」だ。
 
 「いにしえの人は、カメラも電話もないから、それにFAXどころか郵便制度も発達していなくて、手紙さえも届かないから、届かぬ想いを歌に詠んだりしていたらしいね。実はたった150年くらい前まで、人はそういう環境でずっと愛を育んできた。それが当たり前だったらしいね。これ、古典の先生の受け売りだから間違いないよ。
 すぐそこに道具の揃っている世の中は便利だけど、何かこう、想いを温めるような趣が失われているね。先生だったら、会えない辛さを絵にするね。君たちもやってみようか。さあ、これから校庭に出よう。体育の授業で使っていない時間だから、好きな場所から、好きな角度から桜を眺めるといいよ。あえて『写生』にしない。今日は眺めるだけ。よ~く眺めて、その印象に自分の恋心を織り交ぜて、来週から絵に描いてみよう。写真も手紙もない時代にタイムスリップしてみて、あえて記録に残さず、眺める。満開の桜をドライフラワーにして手元に保管しておくようなことは野暮。今この限られた時間の輝きと恵みに感謝しながら、君たちの目の前にある桜の美しさを身体じゅうで愛でるんだ。花の香に心を奪われ、花の吐息に心を震わせよ。もう二度と抱けないかもしれない想いを表現するのが芸術なんだよ。」・・・あれから四半世紀が過ぎた秋の日、自宅を出る。会議の集合までには余裕があった。今しか感じられないこの爽やかな秋風にもう少し吹かれたくなって、地下鉄を使わずに京都駅まで歩いてみることにした。
 烏丸通を下ル。東本願寺を抜け、七条通まで辿り着こうかというその時である。公孫樹の黄色に並ぶその赤色は、もみじの紅とはやや気配が異なる。風情ある独特の臙脂色の葉が、昇る朝日に照らされて、キラキラを輝きを放った朱色へと徐々に変化していく。休みもなく意味も感じずに働き続け、特に生き甲斐もない私の五感に、安らぎが降り注いだ瞬間だ。日常にこれといって感激する機会が無くなったこの歳になって初めて、恥ずかしながらこれが「桜紅葉」の美しさなのだと知った。そう、桜は、花散る前の春の儚さを讃えられるのは無論だが、もう1つ、葉の散る前の秋の儚さもまた花に劣らぬ美しさを持っていたのだった。私は桜が隠し持っていた「裏側の美しさ」を知った。春の花が「この世の華」ならば、秋の葉は「あの世の華」を物語っているかのようだ。この無知な私をもって、そんな勝手な想像をせしめるほど、見事な彩に染まっている桜・・・桜には2つの楽しみ方があったのだ。・・・こんなふうに目の前にある仕事も身体じゅうで愛でることができたらいいのにな。私はこの時期、厄年には本当に厄(わざわい)が徒党を組んで襲い掛かってくることを実体験し、心身ともに疲れ果てていたのだった・・・つづく

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