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「僕の人生を変えた人」が亡くなった ~ポーランド・ジャズに未来をもたらした天才Zbigniew Namysłowski~

近いうちにこの日が来ると思っていた。だから悲しくはない。ただ、予想より少し早かったかなというのが正直な気持ちだ。

戦後ポーランド・ジャズ黎明期の50年代から活躍し、ポーランドをヨーロッパ有数のジャズ大国へと押し上げた立役者の一人で、サックス奏者・作編曲家のZbigniew Namysłowski ズビグニェフ・ナミスウォフスキが亡くなった。現地時間2月7日、享年82だった。

ここから先は親しみを込めて「ナミさん」と呼ぶことにする。ナミさんはポーランドのジャズ・シーンを進化させた天才だっただけでなく、実は僕の人生にも大きな影響を与えた人でもある。

R.I.P.ナミさんということで彼の偉業についてできる限り記してみたい。記事には、個人的な思い出など直接彼の音楽に関係のないことも含んでいる。内容によってそれぞれのチャプターに分けているので、興味のある見出しのところからお読みください。

ナミさんがポーランド・ジャズにもたらしたもの

1)ジャズ・ミュージシャン=コンポーザーという常識

ポーランドのジャズ・シーンの大きな特徴の一つは、少なくともリーダー作を制作するようなミュージシャンであればほぼ100パーセント、コンポーザーでもあるというところだ。

僕がこの国のジャズにハマったのはまさにそこ。ポーランドのジャズ・アルバムを聴くイコール参加ミュージシャンたちのオリジナル・コンポジションを聴くと言っても過言ではない。おそらく、優れたコンポーザーでなければポーランドのジャズ・シーンでは高く評価されないのだろう。

今日のこうした環境は、ナミさんはじめクシシュトフ・コメダ↓、ミハウ・ウルバニャク、ヤン・プタシン・ヴルブレフスキ、イェジ・ミリアンら50~60年代から活躍するレジェンド・ミュージシャンのほとんどが作曲に力を入れてきた歴史がバックグラウンドになっている。

ただ、ナミさんの場合はレジェンドたちの中でも突出したオリジナリティを持っていた。その個性は、後年の現代ポーランド・ジャズにおける一大ジャンルを確立させるに至った。次に続く。

2)民謡ジャズというメインストリーム

ナミさんの音楽の特徴は、民謡やトラッドの旋律、民俗舞踊音楽のリズムを積極的に取りこんだ楽曲作り。共演者を追い込むかのような複雑な構成と、ダサかわいいとでも表現したくなるような独特の脱力感&浮遊感をともなったメロディセンスも魅力だ。
(チャプター「ナミさんベスト・ワークス」をご参照ください)

1)で書いたように、ポーランドのレジェンド・ミュージシャンたちのほぼすべてが素晴らしいコンポーザー。だがルーツ・ミュージックを取り入れた作曲法という意味ではナミさんは異端と言ってもいいほど濃度が濃い。まさにライフワークとして取り組んでいる感じなのだ。

ナミさんのそうした方法論は、90年代以降に若手たちがフレッシュで洗練されたセンスでフォローすることによって、メインストリームとでも言うべきジャンルへと発展する。それが「民謡ジャズ」だ。
(民謡ジャズについては↓の記事をご覧ください。)

ポーランドでは90年代以降、次々と若手の優れた才能が登場する状況が続いている。頻度や程度は違うものの、皆なんらかの形で民謡を取り入れたアルバムや楽曲を作っている(例↓)。ポーランドのルーツ・ミュージックは、アメリカのジャズにおけるブルースのような捉えられ方なのかもしれない。テイストは違うものの、ブラジルのジャズに近いあり方のようにも思える。

そもそもポーランドが世界に誇るショパンも、民俗舞踊の旋律やリズムを当時最先端のピアノ技法と組み合わせたミクスチャー・コンポーザーだった。また現代音楽の大作曲家たちも多かれ少なかれ民謡を題材とした作品に取り組んでいる。ナミさんはそのスピリットを最も濃く継承した人とも言える。

ではなぜナミさんの影響が90年代以降に顕在化したのだろうか。次に続く。

3)あえてドメスティックという豊かさ

ポーランドは89年に社会主義体制が崩壊し民主化を果たす。その影響はジャズ・シーンにも及ぶことになる。かつてレコード・レーベルは国営オンリーだったのが、資本主義導入によりPolonia RecordsやGowi Recordsなど民営のインディー・レーベルがいくつも設立されることになるのだ。

するとカタログを充実させるためにどんどんアルバムを制作する必要が出てくる。ミュージシャンが圧倒的に足りないので学校を出たての若者たちにも次々とレコーディング・デビューのチャンスが与えられるようになっていく。

当時、同世代のレジェンドのミハウ・ウルバニャクやトマシュ・スタンコはアメリカに拠点を移していたり、ワールドワイドな活動に力を入れていた。しかしナミさんは国内シーンに腰を落ち着け、腕利きの若者たちを自身のバンドメンバーに起用し続けた。激動の時代にあって、彼のバンドはどんな音楽学校よりも有用で厳しい「教育現場」だったのだと思う。

また彼は南部の山岳地帯ザコパネで毎年、若手ミュージシャンを集めてセッション三昧のジャズ・ワークショップ合宿を開催している。ナミさんバンドの最後のピアニストで、日本で大人気のスワヴェク・ヤスクウケ↓もその合宿で彼に見いだされたそうだ。そんなナミさんの活動が、ポーランドの国内シーンの底上げにつながることになる。

実は、ポーランドの若手は国外に打って出ることにそれほど積極的ではない。そうした姿勢はネガティヴに捉えられがちだが、果たしてそれは本当だろうか。個人的には、それは国内シーンが十分に豊かで面白いからではと思っている。ナミさんがもたらしたのは、自国のジャズに対する若者の誇りなのではないか。

共産圏時代は政治的な状況からドメスティックにならざるを得なかったが、今は「あえて」ドメスティック。多様性が謳われる今日の世界において、誰もが上(とされている)ところ(たとえばアメリカ)を目指すのではなく、自分なりのあり方としあわせを追求する。日本で若者世代中心に増えている離島移住者などに近い考え方とも言える。

以上3つが、ナミさんがポーランド・ジャズにもたらしたものだと思う。ポーランド・ジャズ史の正しい理解ではないのかもしれない。だがナミさんの音楽を聴き続け、実際にポーランドにも取材に行って若い世代のミュージシャンたちとも話をしたうえで結論に至ったことだ。

ナミさんは国が急激に変化していく時代にあって、ポーランドをジャズ大国として育て上げ、これからもずっと続く未来を作り出したのだ。

ナミさんスクールの卒業生たち

彼のバンドからどれほど多くのミュージシャンが巣立ったか。そしてその卒業生たちがポーランド・シーンでいかに重要な役割を果たしているか。ざっと名前を挙げるに留めるが、その一部をご紹介したい。なお80年代後半以降のバンドメンバーに限定している&基本的に全員作編曲家も兼ねている。

Leszek Możdżer ピアノ。90年代最高の音楽家の一人。
Krzysztof Herdzin ピアノ。同じく現代最高の音楽家の一人。
Sławek Jaskułke ご存知日本で大人気のピアニスト。
Kuba Stankiewicz ピアノ。南西部の大都市ヴロツワフ・シーンの重鎮。
Artur Dutkiewicz ピアノ。トリオ作品が日本で好セールスを記録。
Piotr Wojtasik ポーランド最高のトランぺッターの一人。
Grzegorz Nagórski ポーランドでトロンボーンと言えばこの人。
Jacek Namysłowski 若手トロンボーン奏者と言えばこの人。息子。
Darek Oleszkiewicz ベース。アメリカでも高く評価されている。
Olo Walicki ベース。フリーからロックまでこなすミクスチャーな鬼才。
Michał Barański ベース。ポーランドのファーストコールの一人。
Andrzej Święs ベース。こちらもファーストコールの一人。
Cezary Konrad ドラム。90年代以降2大ドラマーの一人。
Grzegorz Grzyb ドラム。2大ドラマーもう一人。2018年逝去。
Cezary Paciorek ポーランドのジャズ・アコーディオンの第一人者。
Maciej Strzelczyk 80年代以降を支えた名ヴァイオリニスト。2021年逝去。

ナミさんはオラシオの人生をどう変えたか

ポーランド・ジャズとの出合い

音楽ライターとしてプロデビューしてから10年以上経った。中欧音楽のディスクガイドを監修したりポーランド・ジャズのコンピCDを作ったり、そこそこのキャリアを積んだ今思うのは、ナミさんがいなければきっとプロのライターにさえなっていなかっただろうということだ。

僕は15年近く前にポーランドのジャズを紹介するブログをやっていて、当時ほとんど誰も言及していなかったジャンルだったため希少価値を生み、いろいろとお仕事をいただけるようになった。仕事につながるかどうかはやはり目立った者勝ちという側面はあると思う。

よく「なぜポーランドのジャズを聴くようになったの?」と訊かれるのだが、それはまさしくナミさんの音楽に出合ったから。まだ東京に住んでいた20年くらい前に、レコ屋の中古CDコーナーで偶然彼のアルバムを手に取ったことがすべてのはじまりだ。

そのアルバムは3枚組ライヴアルバム「3 Nights」だ。手に取った理由は計4枚まで収納できる旧型プラケースの分厚さが棚の中で目立っていたからで、買った理由は明らかに英語ではない言語が書かれていて、それが単に面白かったから。音楽的な理由ではまったくなかった。

でも中に詰まっていたのは、当時の僕が頭の中で漠然と「ほんとうはこんな音楽が聴きたいんだよな」と妄想していたもののほぼすべてだった。個性的な楽曲、各奏者の美しい音色に次々と旋律があふれてくるアドリブソロ。

ナミさんの少々かっ飛んだ音楽には「この国のジャズ、なんか違うな。ディグって行けば面白そうだな」と思わせるわくわく感がみなぎっていた。イマジネーションを掻き立てる音楽なのだ。そして僕はひたすらレコ屋でポーランドのアルバムばかりを買うようになる。

すべてのポーランド・ジャズはナミさんに通ず

ブログを書きはじめた時の僕の胸の内は「ナミさん(や彼のいるポーランド)のジャズの面白さをいろんな人に伝えたい」という気持ちでいっぱいだった。今はプロとして仕事しているが、アマチュアブロガーだった頃も今も、音楽の書き手としての僕のモチベーションはいつもナミさんの音楽の魅力を理解できる土壌を日本に作りたいという思いだ。

この国のジャズを聴きはじめたきっかけについて、ポーランド人にもよく質問されるのだが、ナミさんの音楽に出合ったことと答えるとほぼすべての人が「わかってるじゃないか。彼こそがポーランド・ジャズの象徴だからな」と返してくる。彼はそういう存在なのだ。

今SNSやショップのコメントなどを見ると、日本ではもはやポーランドのジャズは「高品質保障」のブランドになっている。僕がブログをはじめた15年ほど前までは、良くて「辺境ジャズ」やDJネタとしての言及くらい。それも取り上げられるのは同時代の作品ではなく60~70年代のアーカイヴばかり。そこから長い時を経て、評価が180度変わった。

すべてが自分の力ではないとは思っているものの、その変化の一端くらいは僕が担ったのではと自負している。そしてその源流にはナミさんがいた。彼の音楽を知らなければ僕はポーランドのジャズにハマらなかったし、それを紹介することもなかった。

だからひょっとしたら、日本のファンはいまだにこの国のジャズをよく知らないという、もう一つの未来もあり得た。その意味でナミさんは日本のジャズ・リスニング環境を変えた人でもある。わが国では「すべてのポーランド・ジャズはナミさんに通ず」なのだ。日本のポラジャズファンのみなさまにはぜひ、彼の死を心から悼んで欲しいと願います。

さらに言うと、ナミさんの音楽を知らなければ、僕はおそらくプロのライターになれていなかったと思う。文章を書く仕事に就きたい、というのは僕の子どもの頃からの目標だった。でも残念ながらありふれたスキルしか持っていなかったようだ。そんな凡人の僕に、ナミさんは「ポーランド・ジャズの専門家」という他にはない個性を与えてくれた

僕の人生にいちばん大きな影響を与えた人だ、と言っていいと思う。本当に感謝しかない。

ちなみに、90年代以降の現代ポーランド・ジャズを日本に紹介した真のパイオニアは僕ではなく笠井隆さん。ガッツ・プロダクションというディストリビューション会社を設立し、一時期ポーランドの同時代のジャズ作品をたくさんリリースしていた。僕はそれらを買って聴きまくって知識を養った。ほんとうに偉大なのは笠井さんだとずっと思っている。彼もまたナミさんと同じく僕の人生に大きな影響を与えた方だ。

ナミさんベスト・ワークス

ポーランド人のジャズジャーナリストの一部、またはよっぽどのフリークをのぞくと、外国人で僕ほどナミさんの音楽に向き合ってきた人間はいないと思っている。

残念ながら日本国内で入手するのが難しいものも多く、権利関係の都合で配信サービスに上がっている作品も少ないのが現状だが、ナミさんのベスト・ワークスを独断と偏見で選んでみた。一番下にプレイリストもあり。

ライヴ・アルバム

3 Nights('98 Polonia Records)
The Last Concert('92 Polonia Records)

前者は過去曲のベストセレクション的プログラム、後者は新曲中心で、2枚とも彼のコンポジションの魅力とポーランド人ミュージシャンたちのほれぼれするような美しい音色を知るのに最適。キメキメや変拍子、ポリリズミックなリズムトリック満載で、もはやプログレ。ビバップ・メソッドにトラッド的節回しがミックスされたサックス・ソロのフレージングも超個性的。
(オマケで2021年3月に行われた国営ラジオ放送用に行われたライヴを↓)

スタジオ・アルバム

Lola('64 Decca)
Winobranie('73 Muza)
Dances('97 Polonia Records)

Lolaは初リーダー作にしてポーランドのミュージシャンが英米で制作したはじめてのアルバムという、いきなりエポックメイキングな作品。Winobranieはポーランド・ジャズ史上最高の作品と言われるコメダの「Astigmatic」に次いで挙げられる民謡ジャズの源流的傑作。Dancesはそこから四半世紀を経た後の民謡ジャズ進化系

リーダー作以外の傑作

Song of The Pterodactyl / Pop Workshop('74 Grammofonverket)
Double Trouble / Deborah Brown,Kwartet Zbigniewa Namyslowskiego('89 Poljazz)

1枚目はあのトニー・ウイリアムスやスウェーデンのJanne Schafferらと結成したスーパーグループによる、プログレライクなジャズロックの傑作。2枚目はアメリカの女性ヴォーカリスト、デボラ・ブラウンを全面バックアップしたハイセンスなヴォーカル・ジャズ。2枚ともDJ界隈で大変に評価が高い作品。

歌ものだって書いてます

Introduction / Novi Singers
Sprzedaj mnie wiatrowi / Bemibek
Nie ma już nic na bis / Krystyna Prońko
Western Ballad / Deborah Brown
Goń latawce

いずれもポップ・シンガーやジャズ・ボーカル・グループ用に書き下ろされた楽曲。1~3はポーランド発ネタとして必ずピックアップされるキラーチューン。ナミさんはポップセンスもある作曲家なのだ。ちなみに編曲もナミさん。4はもともとインストの名曲だったものにデボラ・ブラウンが歌詞をつけたヴァージョン。5はオリジナル不明(たぶん60~70年代)なので、プレイリストにはかつてナミさんバンドのピアニストだったクシシュトフ・ヘルジン編曲のヴァージョンを入れた。

プレイリスト"Legacy of Zbigniew Namysłowski"

上で触れた楽曲以外に、ナミさんのライフワーク「民謡ジャズ」についてつかみやすい曲を入れた。コメダのKattornaとスタンダードのチュニジアの夜以外はすべてナミさんの作曲。まさに鬼才、天才。

(YouTubeのPolish Jazz Seriesオフィシャルチャンネル↓でカタログ中のナミさんのアルバムを聴けます)

印象に残ったナミさんのお言葉集

僕はナミさんに2度お目にかかりお話させていただいたことがある。1度目は通訳さんを介して2時間ほど。2度目はジャズフェス出番前の控室&僕の拙い英語というあわただしい状況で。どちらも充分な時間ではなかった上、なんと2度ともナミさんにお叱りを頂戴してしまった。それでも僕にとってはとても大切な思い出だ。印象的だった彼の言葉をご紹介したい。

「私はアメリカのジャズの大ファンだし、その歴史を尊重している」
ナミさんのお叱りその1。「オリジナルにこだわって、あえてアメリカのジャズには背を向けているように感じるのですが」と言うと「それは違うぞ!」とピシャリ。今もアメリカのジャズに憧れを持っていると言う人があれほどに個性的な音楽を作ることにかえってジャズの自由さを感じた一幕。ちなみに「若手の多くが、自国の歴史が今のジャズのあり方に多大な影響を与えていると言ってますよ」と伝えると「本当に? それは嬉しいね」と相好を崩していた。彼はやはり歴史の伝承に心血を注いでいる人なのだ。

「私は今でも毎日楽器を練習しているんだぞ」
ナミさんのお叱りその2。彼は少年時代にピアノとチェロを学んだものの、プロデビューはディキシーランドのバンドのトロンボーン奏者として。その後すぐにアルト・サックスにスイッチし数年で世界的な奏者にのぼり詰めたという天才マルチプレイヤー。「ずいぶんかんたんに楽器をマスターできるんですね」と言うと「かんたんにだって?そんなわけあるか」とギロリ。そして続いたのが上の言葉。マエストロと畏敬の念で見られる彼が、おじいさんになっても毎日練習! これには内心猛烈に感動してしまった。上記楽器以外にもいろいろな楽器が弾けたらしいので、エルメートみたいな一人多重録音のチェンバージャズアルバムを作って欲しかったなあ。

「毎日作曲していて、演奏していない曲が星の数ほどあるんだよ」
これは本人ではなく、ナミさんバンドのベーシスト、アンジェイ・シフィエンスの証言。音楽からひょうひょうとした天才肌のイメージがあったのだが、ナミさんはひたすら努力と蓄積の人だったのだ。

「自然にそうなってしまうとしか言えないな」
民俗音楽を大胆に導入した風変わりな作曲法について何度か質問をぶつけるも、はぐらかされてしまった。ただ「ピアノを習ってた時の楽譜にけっこう民謡が多かったから、その影響かもしれない」とも。
(この件は↓のインタビュー記事(英語)がより詳しくて参考になります)

「むしろ私が学ぶ側なのかもしれない」
80年代くらいから、ナミさんはその時代で最先端の音楽性を持つ後輩や若手をバンドメンバーに起用し続けていた。マイルス・デイヴィスと同じだ。彼が若手たちのメンターだったのは間違いないけれど、ナミさんにとっては常にフレッシュな感性を保つためにその時いちばん優れたミュージシャンを雇うことが必要だったらしい。「私の曲は難しいので、若い人でないとついてこれなくなりつつあったしね」とも。なんだかすごい。

「今はお茶を飲む時間だよ」
実は1度目にお会いした時、通訳さんが遅れて来ることになり平謝りしていたら「別に気にしないよ、ゆっくり待とう」に続けて言われた言葉。終わった後は「帰りはトラムヴァイ(市電)? 電停まで送ってあげよう」と一緒に歩いてくださったし、素顔はとても優しくてチャーミングなおじいちゃんだった。

今はお茶を飲む時間だよ、と言った時のナミさん。カッコいい! 宝物の写真。

「実はこの曲、私が演奏しているんだよ」
1度目のインタビューの場所は、ナミさん指定のワルシャワの某ミュージック・バー。ちょうど帰る時に、有線かラジオか何かで彼が60年代に結成していたJazz Rockersの演奏が店内に流れていた。ニコニコしながら若い店員に無邪気に話しかけていたのが、すごくかわいかった。

「私はコメダのコミュニティの外側にいた人間なんだ」
ポーランドのジャズに特に詳しくない人間にとっては、ナミさんの存在は彼のアルバム群ではなくコメダの不世出の名盤「Astigmatic」のメンバーとしてのそれだろう。というわけで同作について水を向けてみたら、こういう答えが返ってきた。実際コメダのアルバム群におけるナミさん参加率はかなり少ない。Astigmaticは確かにすごい作品だが、コメダはあの音楽を成立させるためにナミさんの力がどうしても必要だったんだなと思った。
(↑の英語記事にもコメダとAstigmaticについて出てきます。「自分の意見では、Polish Jazzとは言い難い」と言ってますが・・・苦笑)

「ポーランドのジャズは私にとってYesと言うしかない音楽なんだ」
ナミさんのラスト・リーダー作は2016年の彼の誕生日9月9日に発売された「Polish Jazz,Yes !!」。スワヴェク・ヤスクウケや上で登場したアンジェイ・シフィエンスもメンバーだ。トロンボーンはナミさんの息子ヤツェク。タイトルの意味を訊いたらこう言われた。歴史の最重要人物による、ポーランド・ジャズの明るい未来宣言だと思ったことをおぼえている。
(本記事の見出し写真はこのバンドのジャズフェス出演時のもの。ちなみにドラマーのグジェゴシュ・グジプも翌年2018年に46歳で亡くなっている)

結局僕の人生を変えた人、ナミさんとの会話は2度で終わってしまった。もうご高齢だし、近いうちにこの日が来ると思っていた。だから悲しくはない。ただ、予想より少し早かったかなというのが正直な気持ちだ。

過去2回は、「取材に来ている」「音楽ライターっぽいことを訊かなければ」という思いのほうが大きかったので、今度お会いできたらもっと人対人として、より自由な対話ができたらと願っていた。あとでポーランド人の音楽関係者に聞いたところ、ナミさんはあまり自分の音楽について話すのが好きではなく、インタビューも積極的に受けたがらない人らしい。

そんな人と2度もお会いできて、僕は幸せな人間なのだろう。ナミさんが与えてくれたものが多すぎるので、亡くなっても涙は出ない。心からご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。ちなみに僕は2月6日が誕生日なので、もし亡くなるのがもう1日早ければ出来過ぎなくらいすごい運命だったと思うけれど、さすがにそこまではね。R.I.P.

2017年、ジャズフェスJazz nad Odrą取材時のツーショット。宝物の写真その2





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