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わたしの周囲には幼なじみをはじめとして、
森鴎外の『高瀬舟』に心を寄せる人が多い。
昔この作品を読み、町奉行と喜助のやり取りから深く考えさせられた。

短編小説ながら人の心に傷を残し、的確に仕留める力を持つ作品だ。

森鴎外が東大理科Ⅲ類卒業という背景を持つからこそ書けたのか、あるいはわたしの浅慮ゆえに書けないのか、もどかしさを感じる。

倫理観と感情に揺さぶられる町奉行を、
本当にわたしが描くことができないのか。

昨夜、喜助の名前を思い出せずにネット検索をしたところ、
『高瀬舟』が安楽死問題で注目されているという記事を見つけた。

喜助とその弟の出来事が安楽死問題に重なることは理解できるが、わたしは別の視点に着目していた。
「ああ、安楽死の方ね」と思い、
町奉行が喜助に同情する気持ちも分かる。

「もし自分が喜助だったら」と考えてみる。
しかし、わたしの中には「可哀想」という感情だけで手を下されることへの強い反発がある。

そもそも法律とは誰のために存在するのか。

被害者や加害者に寄り添うためではなく、
国民が安心して暮らせるように国が管理するためのルールだとわたしは考えている。

加害者の背景や気持ちを理解しすぎると
「そうする以外なかったよね」
感情は引っ張られる。
しかし人の命を奪った事実は変わらない。

そのような人が無罪放免になり、
隣に引っ越してきたら気が気ではない。

刑に服し、更生して世に出ることと
「自分だって自殺の手伝いをするから無罪だよ」というのは、わたしの中では全く異なる。

原則として、人の命は奪ってはならないのだから、その権限は誰にもない。
どんなに同情しても、線引きをせざるを得ない。

これはわたしが成人になり、父の介護を通して、
父がわたしの腕の中で息を引き取った経験が線引きを強化している。

人は手を下さなくても死んでしまう。
救急隊の指示に従い心肺蘇生やAEDを使っても、
あっけなく死んでしまう。

わたしの感情や本能は親が死ぬのは嫌だ。
優しいとか義務とか、そんなんじゃない。
嫌なものは嫌なんだって。

どんなに娘のわたしが泣き叫ぼうが、
神さまなんかいやしない。

話は逸れるが、この話はnoteにも書いた。
noteの人はわたしを「人殺し」と言った。
人の傷に塩を塗るのが好きだよな。

安楽死についても、病んだ人の意思を尊重し、
家族が同意書にサインをするのだと思う。
しかし直接手をかけることはしない。

わたしにとって、手をかけるかどうかの
物理的な行動が1%の否定に繋がっている。

人と違う視点や考え方では、
仮にわたしが高品質な小説を書けたとしても、
誰にも共感されないだろう。

「この人、何を考えているのか」と
思われるだけだ。