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『罪と罰』~春馬くんは世にも美しいラスコリニコフ

舞台『罪と罰』を春馬くんが演じたという。春馬くんがいなくなったあの日から春馬くんのことを追ううちにそんな情報に出会った。

私ごとになるが、昔、娘がちょっとだけ小さなミュージカル劇団に入っていたことがある。素人劇団でも稽古量はかなりのものだった。その時娘に付き添いながら、来る日も来る日も何度も同じセリフを叫び、同じ感情に震え、同じ葛藤を繰り返す演者たちを見た。劇団四季の舞台もよく見に行くが、NGなら撮り直しできる映像と違い、舞台はやり直しがきかない生ものである。その瞬間にかける演者がさらけ出す表現に内臓までも見せられているような感覚になることがある。そのパワーは尋常じゃなく見る側も相当なエネルギーが要る。それゆえに心が震える。

だからこそ、春馬くんがいなくなったあの日から作品を追っていた私であっても、舞台作品にはなかなか手が出せなかった。ただでさえ弱っているのに、自分がそれらを受け取るエネルギーがあるのか不安だったのだ。
それでも、取りつかれたように春馬くんを追っていたので、あっというまに春馬くんのテレビドラマや映画の作品を見尽くし、舞台作品を残すところとなった。映像ではあるが『星の大地に降る涙』『海盗セブン』『五右衛門ロックⅢ』などの舞台作品を少し覚悟して見た。『キンキーブーツ』は公開ゲネプロや『Kinky Boots Haruma Miura Tribute movie』を見た。圧倒され、春馬くんは舞台の人だ!と思い知った。

でも、この『罪と罰』、ロシア文学である。ドストエフスキーである。19世紀半ばの帝政ロシア時代が背景である。「正義のためなら人を殺す権利がある」と殺人を犯す青年ラスコリニコフ役である。相当難解そうだし衝撃が凄そうだ。今のところ見られる範囲では、最後の最後に残った本作品。この度、WOWOWで再放送されるという。いよいよ、見なければ。

まずは原作日本語訳を読んでみた

そんな感じでこの作品を見るのには、かなりの覚悟を持って見なければと思った。
まずは、いきなり舞台見たのでは衝撃が強すぎるかもしれないから、原作を読んで下地を付けておこうと考えた。なお、この記事に書く原作とは、新潮文庫の「罪と罰」、工藤誠一郎氏訳のことである。このオレンジの表紙の上巻を手に持つ春馬くんを何かの写真で見たことがある。春馬くんが目で追い心に刻んだ一字一句を私もなぞっていこう。そう思い、WOWOW放送日の1週間前に上下巻を購入した。

ロシア文学を読むのは初めてであり、ドストエフスキーも初めて。ロシアの政治的思想にも宗教事情にも疎い。読み始めると、登場人物の名前が聞き慣れないカタカナの羅列であるだけでなく、幾通りにも変わるので混乱した。例えば、主人公については、ラスコーリニコフと書かれているだけでなく、ロジオン・ロマーヌイチと書かれていたり、ロージャと呼ばれていたりロージェンカと呼ばれていたり。ほかの登場人物もしかり。
あれ?これとこれは同じ人のこと?違う人?と混乱してきたので、早い段階でロシア人の名前についてネットで調べてみた。フルネームは「名+父称+姓」で構成されていて、例えば「ロジオン(名)・ロマヌーイチ(父称)・ラスコーリニコフ(姓)」となる。会話以外では姓のみで書かれることが多く、会話中ではその関係性により、呼び名が変わる。だから、母や親友は彼のことを愛称の「ロージャ」「ロージェンカ」と呼んだり名前だけの「ロジオン」と呼んでいるし、警察官達などのそれほど親しくない間柄の人は「ロジオン・ロマーヌイチ」とか「ロマーヌイチ」と呼んでいる。呼称により登場人物間の微妙な関係性がわかるというので、日本語訳でも敢えて呼称を統一せず原作そのまま使われているとのことだが、日本人からはなんともわかりにくい。これから読む予定のある方は、登場人物と呼称を書き出しておきそれを見ながら読むといいかもしれない。
また、登場人物のセリフがものすごく長い。主に、誰かと誰かの討論で構成されているのだが、すごく長いシーンは数十ページに渡って繰り広げられている。その長い長い会話や心理描写から細かな気持ちの移り変わりなどを読み解くことができるのだが、その情景がちゃんと頭に浮かんでくる訳だ。
私が読んだ原作は、上巻585ページ下巻581ページ合計1166ページあった。なかなか一気に読むことができず、WOWOW放送日までには読み終えることができなかった。それでもくじけず読了できたのは、ひとえに春馬くんを理解したいという気持ちのおかげ。そうでなければ間違いなく途中で投げ出していただろう。春馬くんのおかげで歴史的長編傑作「罪と罰」を完遂できたこと、これも春馬くんが私にくれたものだ。

『罪と罰』あらすじ

舞台は、帝政ロシアの首都、夏のサンクトペテルブルグ。
学費滞納のため大学から除籍された頭脳明晰な貧乏青年ラスコリニコフ(三浦春馬)は、自分は一般人とは異なる「選ばれた非凡人」としての意識で、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」という独自の理論を持っていた。強欲で狡猾な金貸し老婆を殺害し、奪った金で世の中のための善行をしようと企ててはいるが、酒場で出会った酔っ払いの退職官吏、その後妻カテリーナ(麻実れい)とその貧乏な家族たちを見ると質入れで得たお金もすべて渡してしまうのだった。
そしてついに殺害を実行するが、殺害の現場に偶然にも居合わせた老婆の妹までをも殺してしまう。この日からラスコリニコフは罪の意識、幻覚、自白の衝動に苦しむことになる。
意識も失い数日間も寝込む彼を心配する親友ラズミーヒン(松田慎也)、上京してきた母プリヘーリヤ(立石涼子)と妹ドゥーニャ(南沢奈央)。さらには謎の男スヴィドリガイロフ(山路和弘)の登場もあり、サイドストーリーでは当時のロシアの生活を描きながら、彼をとりまく物語は興味深く進んでいく。
そして老婆殺し事件では、ラスコリニコフを疑う国家捜査官ポルフィーリ(勝村政信)との息詰まる論戦もあり、ついには真犯人だと名乗る男まで登場。犯罪者の心理を描いた倒叙ミステリーの要素も持ちつつスリリングな展開となっていく。
馬に踏まれて死んでしまう退職官吏の娘・娼婦ソーニャ(大島優子)の家族のためへの自己犠牲の生き方に心をうたれて、最後には自首するラスコリニコフ。
正当化された殺人、貧困に喘ぐ民衆、有神論と無神論の対決など普遍的かつ哲学的なテーマを扱いながら、最後には人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズム大作である。
~Bunkamura30周年記念シアターコクーン・オンレパートリー2019
  DISCOVER WORLD THEATRE vol.5罪と罰公式サイト

いざ、舞台『罪と罰』を鑑賞

こうして、放送日から4日後にようやく私は録画していた春馬くんの舞台『罪と罰』を鑑賞した。

まず舞台セットがとても面白い。
数段の階段と踊り場、天井には三本の蛍光灯が4列というシンプルなものだけで、あとは大きなものはベッドと机だけ。
そして面白いのは、キャスト達が舞台上に点在し群衆となり19世紀半ば帝政ロシア時代のサンクトペテルブルグの猥雑な街の喧騒を醸し出している。それだけでなく、ドアを抑えたりベルを鳴らしたりベッドを運んだりと大道具さんとしての役割を担っている。また、その場にいるはずのない登場人物が舞台の片隅でそのとき進行中の会話の内容を再現していたりするのも面白い。

ストーリー展開は、全体的な流れもセリフもほぼ忠実に原作に沿っていると感じた。これほどまでに長い小説を3時間ちょっとの舞台に収めてもなお原作どおりと感じられたのは、まずは主人公ラスコリニコフの殺人動機が繰り返し説明されるので見る側にしっかりと刻み込まれること。また、場面の展開がほぼ原作通りだったこと。登場人物のセリフが、原作のキーワードをきっちりと盛り込んでいたからだ。

まず、この舞台を堪能するために、ラスコリニコフの殺人の動機をきっちりと理解する必要がある。
 ラスコリニコフは、例えばのナポレオンのように、「その行動により人々が救われるのならばたくさんの人を殺してでも最初の新しい一歩を踏み出す権利がある特別な人間がいると考えている。ラスコリニコフは、自分は法に則り従順に生きるしかない普通の人間ではないのだ、特別な人間なんだと思い込み、貧乏人から金を搾取する俗悪な質屋の老婆を殺し、その老婆の金で人々を救い新しい一歩を踏み出そうという展望を持つ。思いもかけず老婆の義妹リザベータに殺人現場を目撃され、彼女さえも殺す羽目になってしまいラスコリニコフの新しい一歩を踏み出す計画が狂い始める。

このラスコリニコフの信念、ふと『ブラッディ・マンデイ 』のカルト集団を思い出した。そういえば、このドラマの中で誰かが『罪と罰』の本を手にしているシーンがあった。なるほど、あのカルト集団の若者が何度も「神になる」とか言っていたけど、このラスコリニコフの特別な人間論と同じ思想だ。ラスコリニコフは現代だったら、カルト集団の教祖になっていたかな、なんて思った。

(1)勝村政信さんとの対決

国家捜査官のポルフィーリ(勝村政信さん)は、10年近く前、映画『君に届け』の爽子ちゃんのお父さん役だった。ポルフィーリは飄々として相手をじらしながら失言を誘い出すタイプで、ラスコリニコフとの心理戦はとても見事だった。確か前作では画面上接点はなかったと思うが、風早君と爽子ちゃんのお父さんがこんな対決をしているなんて、感慨深いなあ。じわりじわりと心理的にラスコリニコフを追い詰めていく様子、黙っていてもどこかしら少し剽軽さを漂わせる勝村さんのキャラクターが、論理的で容赦ないポルフィーリの人間的な面をうまく引き出していると思った。白黒はっきりつけるのではなく、曖昧な中にラスコリニコフを泳がせ自首の衝動を煽る。ポルフィーリはラスコリニコフに、逮捕と言う形ではなく自首させ再生してほしいと願っているのだ。ポルフィーリがラスコリニコフに自首を進める時に、こんなセリフがある。

人生に背中を向けちゃいけない、あなたはまだ23歳です。
あなたはなにを知っているんです
汝求めよ さらば与えられん
こうなった今でも神はあなたに期待しているはずです
一生鎖につながれたままじゃないんだ
恐れを捨てて人生に委ねなさい
そうすれば向こう岸にたどり着き二本の足で立っていられます
たとえどんな岸辺かはわからなくても
あなたの人生はこれからだ
おそらく煙のように消えることになるでしょう
それでもまだ人生は残ります
人々があなたを見なくなったとしてもそれがなんでしょう
たいしたことじゃない
問題はあなた自身です
太陽になりなさい そうすればみんながあなたを見ることになります

なんて慈愛に満ちた言葉なんだろう。年長者として若人に進言しているだけじゃなく、ラスコリニコフに好意と愛情を持っているのがわかる。なんだか、勝村さんが春馬くんに言っているように見えてしまった。
そして、最後に

あともうひとつだけちょっとしたおねがいがあります
今から48時間のうちにもしもあなたが、思いつめるようなことがあったら、つまり人生にけりをつけようという考えを起こしたら、お願いです
書き残してくれませんか簡潔に、いや詳細に。盗んだものを入れた包みを隠した場所を教えてください

と伝えてラスコリニコフを解放する。ここ、春馬くんの一筋頬を伝う涙。死を覚悟するラスコリニコフ。このシーンが私の心にグサっとささる。

(2)大島優子さんとの対決

娼婦ソーニャ役の大島優子さんと言えば、言わずと知れたAKB48で一世を風靡したアイドルだが、演技を見たのは数年前のTVドラマ『東京タラレバ娘』が初めてだった。その印象が強かったので、このソーニャ役を見て、こんな演技ができる女優さんだったの!?と驚きだった。特に「ラザロの復活」を朗読するシーンなど、ものすごく迫力があったし、ラスコリニコフの熱量に負けない演技をちゃんと返していたと思う。
ソーニャが朗読する「ラザロの復活」は圧巻だった。あんな小さな体のどこからあの気迫が出てくるのだろう。

イエスは彼女に言われた
わたしはよみがえりであり命である
わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる
また、生きてわたしを信じる者はいつまでも死なない
あなたはこれを信じるの?
マルタはイエスに言った
主よ、信じます
(中略)
イエスは目を天に向けて大声で呼ばわれた
ラザロ!ラザロよ、出てきなさい
お前の墓から出てきなさい
そして死んだ者がよみがえったのです

死んだ者がよみがえった、というワードだけで胸をつかれて涙。

(3)ラスコリニコフの信念が負ける時

私は、この舞台を見ながら、ラスコリニコフがどの瞬間にあの危険で恐ろしい信念を捨て去ったのか春馬くんの表情から読み取ろうと何度も見た。

ソーニャが十字架をくれたをところか・・・

道で「わたしはひとを殺しました」と叫ぶところか・・・

警察署でスヴィドリガイロフの自殺を知ったところか・・・

自首して手錠をかけられ鎖でつながれたところか・・・

というのも、原作エピローグが次のようになっていたからだ。
流刑地シベリアでもラスコリニコフの苦悩は続く。

この一事、つまり自分の一歩に耐えられずに、自首したという一点に、彼は自分の罪を認めていた。彼は、どうしてあのとき自殺をしなかったのか?という問題にも苦しめられた。あのとき河の上に立ちながら、なぜ自首を選んだのか?生きたいという願望の力がそれほど強く、克服がそれほど困難なものなのか?死を恐れていたスヴィドリガイロフでさえ克服ししたではないか?
      ~「罪と罰」エピローグより

つまり、依然としてまだラスコリニコフは老婆を殺したことはとは思っておらず、新たな一歩を踏み出せなかったことがだと捉えている。普通の人間がする自首をした自分を恥じ自殺しなかったことを悔いているのだ。

エピローグでは、ソーニャは流刑地シベリアにラスコリニコフを追っていき面会に通う。でも、ラスコリニコフはソーニャにそっけなく対応する。やがて、ほかの囚人たちに対しても慈愛に満ちたふるまいをするソーニャ、そしてみんなから愛されるソーニャを目の当たりにし、更に囚人たちとの関わりを通して少しずつ変わっていくラスコリニコフ。
そしてついに、その時がやってくる。

どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突き飛ばされたような気がした。彼は泣きながら彼女の膝を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真っ蒼になった。(中略)彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを、そして、ついにその時が来たことを、彼女はさとった、もう疑う余地はなかった・・・~「罪と罰」エピローグより

ソーニャへの無限の愛に目覚めたラスコリニコフは、ここでようやくあの危険で恐ろしい信念を捨て、ソーニャの信念に負けるのだ。

いまは、彼女の信念がおれの信念でないなんて、そんなことがあり得ようか?・・・~「罪と罰」エピローグより

これが、舞台『罪と罰』の最後のソーニャとラスコリニコフがパンを分け合うシーンだ。ラスコリニコフが自分の恐ろしい信念を捨てたのは、あのシーンなのだ。

帝政ロシア時代なんて私にはよくわからないけど、民衆がとても貧しい時代だったんだろう。ラスコリニコフは自分を含めた不幸な民衆を救いたかった、ただその一心でそれは強く崇高な想いだったためにこれほどまでに執拗に持ち続けたのだ、その信念は恐ろしく偏狭だったけれど。

舞台の春馬くんの表情を見て、自分の信念を捨てた瞬間はどこだったろうと何度も見た。

やはり、ソーニャからパンを受け取ってハッとする顔をした時なのだと思った。
それまでのゆがめたぐしゃぐしゃの泣き顔の数々は、特別な人間になれなかった情けなさ、絶望の表情。殺したことではない、失敗したこと、それなのにソーニャやドゥーニャを泣かせる卑怯で愚劣な自分への失望だったのだと思う。

(4)最後はラザロの復活に見えた

原作のエピローグの最後にはこのように書かれている。

しかしそこにはもう新しいものがたりが始まっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、その人間がしだいに生れ変わり、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。~「罪と罰」エピローグより

最後のパンのシーンは、「ラザロの復活」だと思った。ソーニャがイエスだ。ソーニャの愛、信念を信じることによって、一度魂が死んだラスコリニコフはラザロになり復活したのだ、と思った。

世にも美しいラスコリニコフ

原作最初にある主人公ラスコーリニコフの形容はこう書かれていた。

彼は黒い目がきれいにすみ、栗色の髪をした、驚くほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均斉がとれていた。
      ~「罪と罰」 ドストエフスキー作、工藤精一郎訳

まさしく春馬くんそのものではないか。
演出家のフィリップ・ブリーン氏をしてこのラスコリニコフ役、「世界中どこを探しても彼の他には考えられない」と言わしめた春馬くんだけど、その理由はもちろん容姿だけでなかった。今回、初めてこの作品を鑑賞して改めてその確証を得た。
神経質で狡猾で、理屈っぽくって臆病で、傲慢で愚劣で狂気を帯びていてでも優しくて。原作から受け取ったラスコリニコフのイメージがそのまんま春馬くんに乗り移っていた。
目玉が落ちちゃうんじゃないかと思うほど見開いた目、目玉リレーも見せてくれ、聞くところによると、顔の半分は狂気をもう半分では平常心を表す左右非対称の表情を訓練したという。また、メソード演技を勉強し蛇をイメージした動きを取り入れたり、教会に出向きキリスト教について勉強しにいったりと、それはそれは緻密な役作りの努力を重ねたという。特に狂気の演技はリアリティがあって、ほんとに春馬くん狂ってしまっているんじゃないか、と思わされるほどだ。
また、第一幕では、殺人を犯してから警察署や自宅で何度も失神するが、いくら身体能力の高い春馬くんとはいえ頭打ってないだろうか、あざになってないだろうか、と見ていて心配になるほどだった。数えてみたら10回ほど卒倒していた。あの失神は、新たな一歩の失敗の混乱、自白の衝動を抑えるあまりの失神なのだったと思う。
特別な人間についての信念を述べるときはいつも急に生き生きする。淀みなく早口でテンポもよく身振り手振りも大きい。この思想に取りつかれているラスコリニコフそのものだ。

そして、どうしたってやっぱり美しい。美しすぎる。
苦悩している表情は見ていて辛くても、やはり影のある汚れた役は、春馬くんの大人の色気を最大限に発揮してくれる。汗で乱れた髪が顔にかかった横顔にはほんとに、見惚れてしまうし、最後シャツを脱いでの上半身裸の春馬くんは、色気が溢れすぎている。そして、その姿はもはやキリストのような神々しさだと思った。
以前見たことがある劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」。春馬くんもやってみたい演目に挙げていたが、最後、キリストが裸で十字架にはり付けにされるシーン、あれ、春馬くんがやったら世にも美しいジーザスになっただろうな。

パンドラの箱

私はこの三週間ほど、録画した『罪と罰』を何度も見返したり、原作を何度も読み返したりして過ごした。やらなくてもいい雑事はなるべく後回しにして、ただひたすら『罪と罰』のために時間を使った。そのくらい、長くて難しい題材だったのだ。ただただ理解したかった。
この記事も何度も書き直した。我ながら相当な入れ込みようだと思う。

春馬くんは、この作品によってパンドラの箱を開けてしまったのか?

『罪と罰』の紹介文を読んだだけで、自分がその疑問にとらわれてしまうだろうことは予想できていた。だからこそ、最後の最後まで見れなかったのだ。
そして、原作の文字を追う時や、舞台『罪と罰』のセリフのそこここに、心がグサっとえぐれる瞬間が何度もあった。

以前読んだ春馬くんのインタビュー

三浦春馬「すごくエネルギーを使う役どころ。誠心誠意向き合った稽古終わりの疲労感が……気持ちいい疲労感ではあるんですが、かなり憔悴するような・・・このまま消えていくんじゃないかと感じるほど。」
     ~『罪と罰』のフォトコールより

来る日も来る日も、このラスコリニコフの狂気的な心情とセリフを繰り返して過ごし、自分の中に狂気と絶望を作り上げていく過程。やはり、ラスコリニコフを演じる春馬くんを見て、内臓さえも見せられているような気持ちになった。

春馬くんは、この舞台を通して、何を考え、何を感じていたのだろう。
あの夏の日の衝撃に関係しているのか。

春馬くんの歪んだ苦悩の表情が脳にこびりつき、この三週間、どうしてもずっとそれを考えていた。辛い気持ちになる時もあった。

それでも、何度も何度も見た。

そのうち、あれ・・・?

この舞台、たくさんの愛の物語が潜んでいるじゃ・・・と気づいた。

そんなこと、皆さんはとっくに初見で気づいているのかもしれない。でも、私は『罪と罰』という強烈なタイトル、そしてその暗く重いテーマに注力し過ぎて、恐ろしい信念に取りつかれ堕ちていく青年の物語だと思っていた。何度も見て、何度も読むうちに、ようやく実はこれはたくさんの愛の物語だ、と、はたと気づいたのだ。

ソーニャの無限の赦しと恋慕。
母からの無償の愛。
妹ドゥーニャからの尊敬と兄弟愛。
親友ラズミーヒンからの信頼と熱い友情。
国家警察官ポルフィーリのやり直させたいという慈愛。

ラスコリニコフはたくさんの愛に囲まれていたのだ。それなのに、間違ってしまう。救いようのないほど間違ってしまったけど、どんな形であれ人間は再生できるのだ。それを教えてくれるのは、やはり愛だったーーーー

なんと!そういう愛の物語ではないか!!

「パンドラの箱を開ける」とは、「開けてはいけない箱を開けてしまい中にあった不幸や災いが飛び出す」ということだとずっと思っていた。もちろん、そういう意味で使われるのが常識だ。だけど、もともとのギリシャ神話ではその先は「その結果、箱には”希望”だけが残りました」ということなのだという。

この『罪と罰』は、まさしくそういう意味ではパンドラの箱だと思った。なにより、最後のシーンは”希望”なのだから。

3週間どっぷりと『罪と罰』に浸り、いろんなシーンやセリフに心をえぐられ、春馬くんの気持ちや状況はどんなだったか考える日を過ごした私だが、すべて憶測だ。私の憶測。数か月前に、自分で書いたじゃないか。

春馬くんが、命を燃やして演じたこと、届けたかった感動、伝えたかったこと、私はそれを見ていくとそう決めたのに、愚かにもまた迷宮に入ってしまっていたのだ。でも、最後はちゃんと見つけられた。最後に箱の中に”希望”を見つけたラスコリニコフを見事に完璧に演じていた春馬くんを。

これからも迷宮に入ること、あるんだろうな。自分の憶測に悩まされる。でも、何度でも、思いだそう。

春馬くんが何者でありたかったか。

春馬くん、あなたは最高の表現者だったよ。

おわりに

私は、キリスト教信者ではないし、熱心な信仰を持っていないのだけれど、ラザロの復活について考えた。キリスト教徒の方には怒られるかもしれないけど、物理的に死者が生き返るなんて、そういうことはもちろん経験ないしやはり考えられないが、でもラザロの復活のような奇跡はあるんじゃないかと思える。物理的に起こらなくても人間の心の中で起こるんじゃないか。
最近、次々に起こっている春馬くんの作品の再上映。海外進出。続々発表される円盤化。
これは春馬くんを愛する人達が起こすラザロの復活ではないか。みんなの心が起こす春馬くんの復活という奇跡。
きっと、こんなもんじゃない。まだまだ起こると思う。

こうして、私の『罪と罰』に浸った3週間を”希望”で締めくくろうと思う。



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