多賀も『旅の効用』読みました
こんばんは。多賀です。
今回は、本屋余白代表の小澤の人生にとって大切な一冊であることで有名(?)な『旅の効用: 人はなぜ移動するのか』の読書日記。
『旅の効用』のインタビュー記事はこちら↓
小澤もずーっと推してたし、僕も旅の本は大好きだし、何より3ヶ月後からスウェーデンへの留学を控えている僕にとって読まない理由はない一冊だったので、やっと、と言ったところでした。
何度見ても綺麗な装丁で、読む前からワクワクでした。
旅をするように読む本
さて、読んだ感想を一言で表すなら、「旅をするように読む本」だった、と言ったところでしょうか。
もちろん、世界の津々浦々を巡った旅行記として、現地の情景を想像しながら読むことができるという意味でもそうですが、個人的にはこの本それ自体がまるで一つの「旅」のようだと感じました。もっというと、この本で幾度となく描かれるような計画性のない、行き当たりばったりの「旅」。
文章に脈絡が薄いんです。いきなりある話が始まったかと思うと、「そこで終わる?」っていうところで終わって別の話になって、別の登場人物が出てきたり、別の引用がスタートしていたり。
また、これは翻訳者さんの意図もある気がしますが、文末も体言止めで終わるところもあれば言い切るところもあったり。
目は普通に一行一行追ってるつもりなのに、頭の中はぴょんぴょんいろんなところに飛び回っていました。
とはいえ、(最初は少し面食らいましたが)「読みにくい」と感じられるほどでもなかったので、そこは著者も訳者の方もバランスを考えられたのかな、と。
まるで、一歩進むごとに新しい世界で満たされるようなムンバイの大通りの曲がり角を曲がるような気持ちで、ページをめくっていました。
(ちなみに、著者ペール・アンデションの最も好きな場所の一つがムンバイらしいです)
哲学でも思想でもない
もう一つ予想外に思ったのは、著者がかなり故郷であるスウェーデンのことをネガティヴに表象していたことです。
いくつか引用します。
「(中略)旅は、ヴァールベリ(スウェーデンの都市)から離れるための方法?」
「ええ。ヴァールベリはとても狭いので、あそこにいても新しい刺激はほとんどありませんでした。世界がどのくらい広いか、外に出ればどのくらいの体験ができるか、そうしたことを、ヴァールベリに留まると決めた人たちはまったくわかっていません。そう思った私は、これじゃダメだと思いました。でもそういう人たちを非難したいわけではありません。私が思うに、そうした人たちは自分で、牢獄みたいな窮屈な生活を送ることに決めたのです」(p.237)
カイロ、コロンボ、ムンバイ、クアラルンプール、ジャカルタ、カトマンズ、北京、あるいはコルカタから帰郷すると、最初の二日間は地獄だ。故郷での生活は、耳をつんざく不協和音のようなもの。空虚、静寂、無臭、表面だけ円滑な日々。そしてストレートすぎて神経質なほどのあわただしい人間関係。(p.340)
筆者が故郷を嫌っている、とまで言ってしまうと少し語弊があるかもしれませんが、こういった文章からはかなり明確なメッセージが伝わってきます。
実際に読んでいて「これでもか」というほど感じたのは、一方ではモダニズム、機械化、均質化、人間関係の希薄化に対する拒否反応と、また一方ではポストモダン(あるいは過去)、刺激、濃密で多様な人間との触れ合いに対する「渇き」と言ってもいいほどの憧れでした。
正直、これほどまでに世界を二項対立的に捉える考え方には抵抗を覚えてしまうこともありました。もちろん読者にとって未知の世界の魅力語りに言葉を尽くしているのは読んでいて楽しいですが、それはそれとして、自国や故郷のことをそこまでこき下ろさなくてもいいのではないかという気がしてしまう。
また、未知の世界をそのようにポジティヴなものとして一括りに表象してしまうこともまた、読者に「逆張りの」ステレオタイプを身につけさせることにつながってしまうのではないかという危なっかしさも感じました。
そういうわけで、これはもはや「哲学」や「思想」の類ではないな、というのが僕の個人的な感想です。むしろ、そういったものに洗練される前の、現代を生きる一人の人間の心の叫びというか、赤裸々な感情の表出に近いものとして読むべきだなと。
それでもそういった「感情」を、圧倒的な経験量を基礎に、的確な言葉を選びながら重みと味のある文章にまとめ切っているところにこの本の価値があるのではないかと思いました。
帰れる場所があるから旅ができる
でも一方で、筆者は別にモダニズム批判やスウェーデン批判がしたかったわけではないのかなとも思います。少なくとも、それがいちばん伝えたいメッセージではないと思いました。(一番伝えたいメッセージについては、小澤がインタビュー記事の中で語ってくれていることで間違い無いと思います。この読書日記はかなりひねくれた読み方をしてしまっております(笑))
どちらかというと、筆者が「たまたま」スウェーデンという場所に生まれ育ったから、そこから抜け出したいという欲求の帰結として、「たまたま」批判する対象がスウェーデンになったというように感じられます。
だから、もし筆者がムンバイに生まれ育っていたら、ムンバイとスウェーデンの語られ方は全く逆になっていたのかもしれません。
実際、筆者はスウェーデンについてこのように語っています。
スウェーデンの生活が安定しているからこそ、そしてスウェーデンにいれば安心だからこそ、しばらくスウェーデンを離れるのも容易なのだ。もしスウェーデン社会が荒れていたら、旅立つのは不安だろうし困難だろう。(p.273)
つまり、確かに故郷であるスウェーデンは「抜け出すべき対象」だけれど、同時に「帰ってくるべき場所」でもあるのです。「旅」について考えたときにはどうしても前者がフォーカスされてしまいがちだけれど、「帰ってくる場所」がどれほど大事かも、ちゃんと筆者はわかっていたのでしょう。
そもそも、「帰ってくる場所」がなければ、旅ができないどころか、旅について考え始めることすらままならないはずですから。(帰ってくる場所がない旅はもはや旅ではなく、それは「放浪」とか「遊牧」と呼んだ方が適切でしょう。想像するしかありませんが、それは「旅」とはまたかなり異なる概念な気がします。)
そんなわけで、「行き先」と同じくらい「帰り先」が大事だということも、本書でハッとさせられた良き学びのひとつでした。
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さて、僕は3ヶ月後からスウェーデンに行くわけですが、筆者とは真逆です。抜け出すべき場所は(きっと筆者にとってはロマンに溢れた極東に位置する)日本、新しい世界はスウェーデン、そして帰ってくる場所も日本。
果たしてリアル『旅の効用』を経験する僕はそこから何を学ぶのか、経験の重要性についても語り尽くしている本書を呼んだからこそ、もっと楽しみになりました。
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