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2021年夏 / コロナ禍の横浜を往く

 8月、2年半ぶりに横浜を訪れた。

 2年半は、数字としては大した年数ではない。40年ほど前、就職で横浜を離れた後も、90年代初めには東京に戻り、仕事で関内の官庁街などはよく訪れた。また、このコロナ禍前も、中華街や野毛で友達と食事したりと、同地に行く機会は多かった。今回は、コロナのせいで少々間隔があいてしまったが、目的地が藤沢市と横浜の2ヵ所だったので、鵠沼で用件を済ませた後、江ノ島から湘南モノレールに乗り、大船経由でもう一つの目的地である港南区の笹下に向かった。同地は、実に半世紀ぶりの訪問である。

 横浜は、幼児期から大学卒業までを過ごしたいわば故郷(ふるさと)。時代は、60年代から70年代である。当方、生まれは東京なのだが、誕生後すぐに埼玉・所沢の団地に移り、その後、大阪・堺で数年幼少期を過ごした。大阪から横浜に引っ越し、直後に1964年の東京五輪が開催されている。幼い目は、磯子区の路面電車通りで聖火ランナーを目撃している。

 横浜市内では、上記のごとく磯子区から始まり、南区(現・港南区)、戸塚区と移り住んだ。父は大手企業に技術者として勤めていたから、家賃の自己負担はさほど大きくなかったはず。もっぱら、住宅環境と通勤利便性から引っ越しを繰り返していたようだ。

 横浜は、20年近くを送った町である。一番長かったのは戸塚区。ここは15年前に旧住所地を歩いたので、まだそのときの印象が残っている。港南区は本当に久しぶり。

 大船からは、上大岡方面へのバスを利用する手もあったのかもしれないが、不慣れであるし、時間もかかりそうだったので、とりあえず京浜東北線の洋光台からバスに乗ることにした。

 ちょうど、横浜市長の選挙戦の最中のため、根岸線沿線は、自民党候補者の応援に大物代議士が駆けつけるなど、各駅前ザワついていたようだ。選挙だから仕方がないとはいえ、感染の危機的状況にあまりにそぐわない動きに違和感が。

 洋光台からバスに乗ると、途中、起伏のある地形に住宅地が続く。磯子区から港南区に入り、覚えのある並木道の、とあるバス停で降車。近くの小学校周辺は、ほとんど歩行者おらず。

 用事があるのは地下鉄・港南中央駅の駅前。約束の時刻までは時間的余裕があるので、バス終点の少し手前の昔住んでいた場所を歩こうと、先日予定が入ったとき思いついたのだ。

 当方がこの地で過ごしたのは、1960年代の終わり。8歳頃で、身長は140センチそこそこ。当たり前だが、今大人の身でそこに立つと、町全体が小さく、道も狭く見える。まるで、初めての土地のようだ。自分が暮らした家に向かう道筋もよく分からない。着けば大丈夫と思っていたので、一瞬焦燥感にとらわれる。家族4人で住んでいた借家は、確か丘の上だった。敷地からは、眼下に刑務所内が見渡せ、所内に流れるアナウンスの音が聞こえるほどの近さだった。

 ウロウロして、ようやくそれらしき場所にたどり着いた。そこは駐車場になっていて、車が数台。家屋はない。果たしてここだったか。前もって、Google Earthで「あたり」をつけていたのに、どうもしっくり来ない。その場でスマホ画像と照らし合わせたが、周囲の空間を狭く感じ、木々の背丈も昔より低く見える。しかし、刑務所を見下ろせる場所はココしかない。

 自宅敷地内に入るには、バス通りとなっている先ほどの並木道と並行に走る坂道のてっぺん付近で、最後のひと踏ん張りといった感じで、急階段を右に折れて上らなければならなかった。しかし、そのコンクリート階段も見当たらない。

 小一時間ほど歩き回ってから、先程の並木道に再び出て、諦め気分で港南中央駅方面に下った。和菓子屋が入っていたマーケットの建物は、新しいビルに建て替わっていた。その和菓子屋では、「すあま」をよく買った。位置感覚は正しい。やはり、さっきの駐車場があの場所か。

 地下鉄駅のほぼ真上の中学校は昔のまま。当時通学した小学校の校庭はプレハブ教室で埋まっていたので、この中学校の校庭を借りて運動会が行われたのである。

 幹線道路沿いの歩道や役所周辺は、意外なことに子連れを含めけっこうな人流が。とりあえず、駅前で用件を済ませた。

 結局、住んでいた所は「ここかな」といった程度で特定できないまま、モヤモヤとした気分のまま東京に戻った。家でPC画面のGoogle Earthを改めて凝視。それで、ようやく合点が。

 やはり、丘の上のあの駐車場が自宅敷地だったのだ。敷地そのものの画像は見られなかったが、自宅前の畑の向こうに見える雑木林が昔と同じ。間違いない。今日見てきた林だ。画像だけに集中すると、現地確認に比べて植物の高さが子供時代と同じに感じられる。当時の周辺の景色まで甦った。

 今は駐車場となっている庭先の畑は、大家さんが「使っていいよ」と空き地を提供してくれていたものだ。九州の田舎育ちの亡父は、ここでナスや大根、キュウリなどを栽培していた。出勤がない日は農作業。野菜をとって、料理して食べたり、ご近所に分けたりしたことは、この土地で暮らした2年間で最も楽しい思い出となっている。収穫は主に当方の役目。夏は、大輪のヒマワリが咲き誇り、その種も大量にカゴに集めていたのだ。

 庭に向かって右側は空き地。春にはツクシが群生。それらも摘んで「おひたし」にして食した。その空き地奥のアパートからは、毎週日曜日になると、朝っぱらから伊東ゆかりの『小指の思い出』が大音量で響き渡る。しかし、近隣から苦情が出ている様子はなかった。ハイファイの美音だったので、地域の皆さん、聴くのを楽しみにしていたのではないか。おかげで、小学校低学年の当方は色っぽい歌詞を丸暗記。

 刑務所と言えば、灰色の塀沿いの真っ直ぐな舗装道路で自転車を練習をした。道は、まるでスキー場のようになだらかなスロープになっていて、上方からスピードを出して下るのが爽快だった。ある日、速度を出し過ぎてブレーキが間に合わず、ステッキ片手の老人に背後からぶつかったことがある。幸い大事には至らなかったものの、そのおじいさんにはこっぴどく叱られた。今回、その道を歩いたとき、コンクリート感むき出しだった塀の色が、白く明るくなったような気がした。50年前は周りに建物が少なく、もっと寒々とした場所だった。無機質な塀が、当方の世界ともう一つの世界を容赦なく分け隔てていることを、未熟な心であっても感じ取ることができた。今回も人通りがほとんどなかった。やはり、コロナのせいもあるだろう。

 道路をはさんで塀の向かい側が、自宅のあった小高い住宅地。今も上までの小道が残る。昔は、子供たちがそこを駆け抜けていた。途中、脇に公園みたいな広場があって、そこで生まれて初めて野球をした。今見ると狭小地だ。誰もおらず、恐ろしく静かだった。当時は公園と思っていたが、実は私有地で立ち入り禁止だったのかもしれない。でも、子供たちはのびのびと遊んでいた。

 この8月の訪問では、丘に張り付く住宅地に子供たちの姿を見ることはなく、また人影そのものもまばらだった。古く落ち着いたエリアであるが、高齢化の波もあるだろう。また、コロナでステイホームの人も多かったのだろう。半世紀という時の流れは、長過ぎる。かつての自分の生活空間に、世界が一変してしまったのでは、というくらいの変質を感じた。

 小学校4年生の時、笹下の町を離れ、その後50年を生き延びた。当時よりも、年々暮らし向きはよくなった。それでも、年寄りじみた言い草だが、「昔がよかった」と思う。ほんの一時期であったが、土と汗にまみれ、太陽の下、家族で野菜を育てたあの頃が、ときどき脳内でパッと光輝くのである。