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入魔

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「走火入魔」
これを簡単に説明することは難しい。

氣功の用語ではあるが、
太極拳、ヨガ、瞑想、祈り、歌唱、武術 ・・・ ・・・

「走火入魔」は、
疲れきって考える力を失ったときや、苦しみすぎた時などにも起こるときがある。

『開発』 の進んだ 『こころ』 にしか 起こらない現象で、
あまり知られていない。

(氣功の解説によっては「偏差」と同一としているところもあるが ここでは、それとは区別している。)

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魂(あるいは心)が、深くなって
神(あるいは宇宙または何か)に近づくほど…

それらと 一体になるほど、

それは起こりやすくなる。

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ある時は
慈愛に満ちた<存在>が現れ、
言われてみたい言葉を 投げかける…

『あなたは、人類のためにがんばるのですよ』
『あなたは、人の幸せのために 一生懸命やっていますね』
『あなたは、幸せになります』

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心には こみあげてくる感激があふれ、
感動に胸を揺さぶられ 感涙が頬を伝う。

そしてその<存在>(マリア様であったり その人の身近なイメージ)に感謝する。

ある時は
光に包まれ、

癒しを経験し、

幸せに満ちた至福の感覚を味わう。

具体的な『言葉』を得る時もある。

あるいは、
超常体験(感覚)もある。

あるいは

めったにないが、
<存在>(「先祖」などその人にとって納得できる形)が、助けを求めてきたりすることもある。


歓喜 ・・・ 嬉しさ ・・・ 感激 ・・・ 困惑 ・・・ 使命感 ・・・ ・・・

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これらをなぜ「入魔」と呼ぶのか。

釈迦は 修煉中に見えたすべての光景を全部「魔幻」だとしている。

魂を揺さぶるような感動を呼び起こす出現
<例えば 神 例えば 観音様 マリア様 の> が

なぜ「魔幻」なのか。

なぜ「入魔」なのか。

(生命の危機を回避させるような警告は別だが)
そういった経験は、なにをもたらすか・・・

『 神 <あるいは他の何か>に特別に〈選ばれた〉 わたし』

『人のために尽くしている 〈崇高な〉 わたし』

『〈約束〉された わたし』

『〈特別〉な体験をした、他の人とは〈違う〉 わたし』

『なにか〈特別な使命〉を持っているに違いない わたし』

『他の人が経験していないことを 経験した わたし』

『人よりも 先に進んでいる わたし』


またあるいは、みずからが『神』になる ・・・ ・・・

そういった経験は、
気持ちが良いだけに、人の判断を誤らせやすい。

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熱心に 励めば、
熱心に 修練すればするほど、

誰でも、入魔には出会う。

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密教では、修行してゆく中で、
超能力が開いたり、超常現象に出会ったりするが、
それに固執しないように諌めている。

と聞いたことがある。

仏教の修行中の僧でさえ、
そんな経験をすれば、
目的が〈我が〉超能力の 開発に 置き換わるのはたやすい

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「道」を極めようとすれば
入魔が起こる。

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神々しく、慈悲深い<存在>に 感動すれば
誰も疑念の余地などない。

 

あがめ、慕うことを、誰も非難できない。

 

みずからを歓喜に身をまかせ、期待に胸弾ませることに、
誰も水をさせない

 
 

先人は、

何かが見えたら、

何かが聞こえたら、

心を奪われることなく
ひたすら道を極めることに精進することを説いている。

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光に全身包まれるのもいい、
宇宙人からメッセージをもらうのもいいが、

 

自分を「人間」から切り離してはならない。


物質社会、この三次元から自分を切り離すことではなく、

むしろ逆で、
この三次元の物質の世界で、
「人間」として、いかに心性を向上し、どう生きるか・・・

 

絵空事<バーチャル世界>のなかで幸せを味わうのではなく、

現実を見据え、
現実から、自分をそらすことなく、
自分を現実社会に深く投げ入れ、

そのなかでこそ真実を見つけることだ。

 


2004.5.5

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