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最終講義

 皆さんは「最終講義」というものに足を運んだことがあるだろうか。
 最終講義とは、大学を退職する教員による、最後の講義である。普段とは異なり公開講座になる場合が多く、私もいくつか最終講義に参加してきた。
 自身の専門性を活かしつつ、より普遍的なテーマについて語る。最終講義の内容としては、このパターンが一番多い。通常の講義で、生きるとは何か、学ぶとは何か、について語り出せば、鬱陶しがる受講者もいるだろうが、最終講義の場合、むしろそういった語りを聴きに来ているところがある。

 最終講義を終えられたばかりのある先生に誘われて、海鮮丼をご馳走してもらったときのこと。当然話題は「最終講義」が中心になった。
 あえて気負ったりせず、普段通りにやろう。最初はそう思っていたけれど、何だか落ち着かない。やはり最後ぐらい、深みのあることを言おうか。そう思って、書斎の本棚に目をやる。
「先人たちの力を借りようと思って、最終講義を書籍化したものを何冊か読んだ。いやー……真似できないものばかりで、溜息が出たよ」
 先生は苦笑しつつも、その表情には「私もやりきった」という晴れやかさがあった。

 上記のようなやりとりもあって、私自身、「最終講義」を収録した書籍には、強い関心を持ってきた。
 せっかくなので、最近手に取った「最終講義」本を一冊紹介したい。
 KADOKAWAから刊行された、『最終講義 学究の極み』。本書は、かつて『増補普及版 日本の最終講義』というタイトルで出版されていたものが、分冊の上、文庫化したものである。単行本時代からたびたび読み返していた本であったので、文庫化はシンプルに嬉しい。

「非常に単純に言って、初めわかるところが小さな円であるとすると、あとはみんなわからないんだけれども、わからないという意識は円の周辺だけです。しかしわかる円が大きくなると、円周も大きくなりますからわからない部分も大きくなってしまう。ともかくわかればわかるほどわからないところもふえていくということができます。おそらくすぐれた研究者はすべて同じような思いを持つのではないでしょうか。」
土居健郎・述、『最終講義 学究の極み』角川ソフィア文庫、P212)

 本書から、あえて一箇所文章を引っ張ってくるとしたら、私は、精神医学者・土居健郎の発言を紹介したい。
 数十年間、医療の現場や学究の世界に身を投じてきた人物が、最終講義の場で「わかればわかるほどわからないところもふえていく」と発言したことは、極めて重要である。
 私はこの言葉から、妙な安心感を受け取った。私自身、読書生活を続けていく中で、学べば学ぶほど、自分の不全感が増していくという感覚があった。この感覚は決して不健全なものではない、ということを、土居の指摘は気づかせてくれたように思う。

 『最終講義 学究の極み』には、土居健郎の最終講義だけでなく、名のある学者による、力のこもった名講義が多数収録されている。強くお勧めしたい。



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