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高級

 自宅の本を激増させないために、最近設けたルールがある。
 それは古本を購入する際のルールだ。

・古本を一冊買いたければ、自宅の本を二冊読み終えるか、二冊売る(譲る)か、どちらかを実行しなければならない。

 読み終える、の方は積読対策、売る(譲る)、の方は自宅のスペース対策だ。この取り決めを自分に課すことによって、古本の衝動買いを防ぐ。
 条件を満たさないと古本を買えない以上、へたに古本屋に立ち寄って欲しい本に出会ったりすれば、激しく逡巡することになる。そうならないために、今では条件を満たしていない限り、古本屋に寄ること自体をしなくなってしまった。悲しいことではあるが、致し方ない。

 人生をモノの蒐集に捧げてきた先人たち。彼らの語りに触れることによって、学べるところはたくさんある。
 一つ例をあげよう。審美眼の鋭さから、小林秀雄に「天才」と言わしめた評論家・青山二郎。彼の随筆「眼の引越し」に、次のような文章がある。

「なけなしの金で、昔から私は美術品や骨董を買って喜んでいました。この癖さえなかったら暮しは楽でした……そう思い乍ら三十年になります。ところが一方で、私は骨董をいじって大人しく茶人の真似をして、三十年も暮して来たのではありません。私の周囲と言えば総てこれ酔漢でした。私は物を売ることを否応なく覚えさせられました。だから、物を買った時の喜びとそれを売払って飲んだ時のそれと、何処がどう違うのか、この年になって今だにはっきりしません。」
青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』講談社文芸文庫、P13)

 酒呑み仲間との付き合いのために、蒐集物を売って、酒代にあてる。ーーお酒を呑む習慣がない私には、いまいち感覚が摑めない。
 私の場合、本を売って得たお金は、たいてい新しい本を買うための資金にあてられる。つまり、紙(本)⇨紙(お金)⇨紙(本)のサイクルの中にある。お金が紙以外のものに変換されることはほとんどない。
 あえて何かを売って資金を集めなければならないほど、人付き合いが豊富でないことが、身を助けている……一瞬そんな風にも思ったが、次に引く青山二郎の問いかけを読んで、再考を促された。

「美を手に入れた喜びの方が、果して酒の味を知った悪習より高級でありましょうか。」(P13)

 無意識のうちに、お金は人付き合いに使うよりも、モノの蒐集に使った方が「高級(高尚)」だと考えている自分に気づき、ハッとした。あくまで蒐集は「好き」を軸にしていることであって、何かと比べて優れているから選択しているわけではない。こんな当たり前な原点にも驕りが入り込んでくることを、この時痛感させられた。



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