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当事者

 凍てつく寒さに目が覚める。時刻は、午前5時。
 身体を温めるため、湯を沸かして、飲む。布団の中に戻ろうとする欲求を抑えて、読みかけの本に手を伸ばす。寝ぼけ眼が、紙の上をゆっくりと進んでいく。

「わたしは幼いころから、なぜ自分が「私」に閉じ込められているのかと失望、もっといえば絶望していた。わたしは「私」でしかいられない。その厳然とした事実の前に、ただ固まり、屈服していた。「私」から脱出する術がないことに、この「私」に死ぬまでずっと閉じ込められたままであることに、この身体のなかに、この「私」という意識のなかに、すっぽりと入れられてしまっていることに失望していた。」
中村佑子『わたしが誰かわからない』医学書院、P170)

 上記の箇所で、歩みが止まる。スッと次の段落に進んでいかない自分がおり、再び同じ箇所を読み直す。
 心臓をギュッと摑まれる感覚を覚えて、気づけば目が冴えていた。

 考えてみれば、いつだったのだろう。自分は自分から抜け出せない、自分は自分以外の人間になることはできない、と気づいたのは。
 もしかすると、今のいままで真剣に考えることなく、ずるずる生きてきたのかもしれない。今回が初めて、というのはさすがにないだろうが、できるだけ直視することを避けてきたのは間違いない。
 あれは小学生のときだったか。いじめ体質の同級生から、「お前の顔では、テレビに出せない」と言われたことがあった。どういう文脈でこの発言が出たのか、今となっては忘却の彼方だが、「この顔、そんなにダメかぁ」と洗面台の鏡を見ながら悩んでいたのを覚えている。取り替えれるなら、取り替えたい、と。
 この苦境をどう乗り切ったのだろう。悩んだって仕方ない、と諦めたのだろうか。

 著者の中村佑子は、幼少期から病のある家族と向き合い続けてきた。昨今、こういう境遇に置かれた子どもたちは「ヤングケアラー」と呼ばれるようになっている。
 各地にバラバラに存在していた当事者に、その人生を普遍化する言葉が与えられた。それは彼らの存在を可視化する力がある一方、当事者の戸惑いも生む。

「世界はいま、さまざまな当事者であふれている。みな何がしかの当事者である「当事者の時代」に入ったのだろう。しかし、突然登場してきた言葉で自分の、自分だけの過去の記憶を定義されることへの戸惑いを抱える人もまたいるのではないか。」
中村佑子『わたしが誰かわからない』医学書院、P5)

 当事者は、抜け出したくても抜け出せない現実を、一種固有のものとして受け入れ、生きてきた。「ヤングケアラー」といった、マイノリティーを可視化する言葉は、時にその固有性を覆い隠し、単純化してしまう。
 ヤングケアラー⇨かわいそう、という当事者への同情は、理解と似て非なるものである。

 中村が指摘するように、いつ自分自身が、特定の言葉のもとにグルーピングされ、ある当事者として世間から見做されるようになるか分からない。その意味で、当事者が書籍に綴る現実は、決して他人事ではない。



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