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本に線を引く人/引かない人

本を読んでいたら、昔のことが思い出されてきて、一旦本を閉じることがある。
まだ私は二十代の若造だが、それでも二十数年の人生の積み重なりがあれば、それだけいろいろな経験をする機会があった。そうなれば必然的に、思い出されてくることも増えてくる。

最近では、『野呂邦暢 古本屋写真集』(ちくま文庫)が、回顧の引き金を引いた。
野呂邦暢といえば、42歳で亡くなった夭折の芥川賞作家で、無類の古本好きとしても知られている。『野呂邦暢 古本屋写真集』には、そんな野呂が撮影した古本屋写真がいくつも掲載されている上に、古本にまつわるエッセイも収録されている。古本好きにはたまらない一冊だと言えるだろう。

そんな魅力的な一冊を読んでいるとき、私はある友人との口論を思い出していた。その口論と関係のある箇所を、上記の書籍から一部引用してみたい。

「Yは読んだ本を私にまとめて与えた。Yには本をためこむ性癖はなかった。気に入った文章に傍線を引くこともしなかった。もの欲しげで厭だというのだ。傍線を引かなければ頭に入らない文章にロクなものはないといった。Yの読み方は速かった。私は彼が新潮文庫で出た「この人を見よ」を、一晩で読了するのを傍で見たことがある。読み終るとYはニーチェの思想を短い言葉で要約した。どういう言葉か、二十年以上たった今では忘れてしまったけれども、後日、会社で宿直した晩に私は「この人を見よ」を読んで、自分の感想がYの要約の域を出ないことを知り、読み巧者というのはYのような人物を指しているのではないかと考えた。彼の癖は私にも移った。今でも本を読むのに傍線は引かない。だから、赤鉛筆片手に本を読んでいる男を見かけると、なんとなくいじましい気持になる。」(『野呂邦暢 古本屋写真集』ちくま文庫、P151)

この文章は、野呂が友人のYくんとある時、本に線を引くか引かないかで意見をぶつけ合ったときの様子が描かれている。
野呂が赤鉛筆で線を引くのを習慣化しているのに対し、Yくんは「傍線を引かなければ頭に入らない文章にロクなものはない」として、線を引くことをよしとしなかった。また、別のエッセイでは、「傍線をいちいち引いてたらおまえ、古本屋に売れなくなるじゃないか」(P152)とも語る。それを聞いた野呂は、「一種の照れかくしでそういったのだと思う」(P152)と述懐している。

本に線を引くか/引かないか、ということについて、私も友人と口論になったことがある。
私は本に線を引かない派で、気になる文章があれば、紙なりスマホなりに、メモをするようにしている。文章をそのまま書き写すこともあれば、キーワードとページ数だけをメモしておくこともある。
一方で、我が友人は、三色ボールペンで線を引くことを習慣化していた。また、線だけにとどまらず、各ページの余白(マルジナリア)に、自分が思ったこと考えたことをメモしていた。「本の余白はメモをするためにあるんだよ」というのが友人の持論だった。

この意見の相違が表面化したのは、ある日友人が私が読書しているのを見て、「本がきれいなままだと、読んだことにはならない」と言ってきたときである。最初、意味が分からず、「どういうこと?」と聞き返すと、「線を引きながら読まないと、身につかないよ」と返答してきた。
いまから振り返れば、別に腹を立てるようなことでもないが、当時の私はイラッとして、「線を引いてたら、身についている感じがするだけで、実際は錯覚だよ」と吹っ掛けた。するとその一言に、友人もイラッとしたのだろう。「そんなに本を綺麗にとっておいて、古本屋で売りたいのか」と別の方面から反論を仕掛けてきた。その後も、口論は続き、結局その日は決着をみなかった。

このまま喧嘩別れ……というのも面白かったのかもしれないが、そうはならなかった。
よく考えてみれば、線を引こうが引くまいが、「紙の本」に対して愛着を持っていることは変わらず、できるだけ本から学びを得たいという姿勢も共通していたからである。
近い存在ほど、細かい差異が気になってしまう。友人とお互いに反省しあって、またいつもの関係に戻っていった。
いい思い出である。


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