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在野研究一歩前(29)「読書論の系譜(第十四回):加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)①」

 今回から数回に分けて、加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)について見ていきたいと思う。そこでまず、筆者・加藤熊一郎のかんたんな経歴と、本書の執筆目的について触れておきたい。

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 加藤熊一郎は、普通、筆名「加藤 咄堂(かとう とつどう、1870年12月13日(明治3年11月2日)~1949年(昭和24年)4月2日)」の名で知られている。彼は、仏教系英学塾オリエンタルホール(平井金三創設)での学びや、築地本願寺の積徳教校の教師となったことなどを契機として仏教を学びはじめ、仏教系雑誌『明教新誌』の主筆を務めたり、『大聖釈迦』『仏教概論』『日本仏教史』『大乗起信論講話』の執筆に取り組んだ人物である。

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 次に「本書の執筆目的」について。
 『普通學獨修指針 一名 普通學大意』の執筆目的は、本書の「第一章、普通學の研究」内において述べられている。

「五六月の交雨多し、これを梅雨といふ、然も人何の故に五六月の交雨多きやを知らず、二百十日前后暴風あり、而して何の故に二百十日前后暴風あるやを知らず、これを寺院の僧侶に問ふも知る者は少し、隻手の聲はよし聞き得るとも雙手聲を成すの理はこれを知るものなしこれ豈に喜ぶ可きことならんや、吾人は僧侶に普通學の必要を宣言するものなり」(P1)

⇒私たちは一般的に、「五六月には雨が多く降る」という現象を「梅雨」という形で知ってはいるが、それが「なぜ」起こるのかということについて、きちんと説明することができない場合が少なくない。この現状は、「寺院の僧侶」となると一層顕著になる。著者・加藤熊一郎は、ある現象について、その原因も含めて説明できるようになる学びを「普通學」と位置付けて、それを「僧侶」に必要なものとして主張している。
 ここから分かることは、本書の主なるターゲットは「僧侶」であり、彼らに「普通學」を学ぶための指針を示すことが中心課題となっていると言える。

「梅雨の理二百十日の事、普通學の初歩を學べるもの直にこれを解す然も老成の佛家これを知るもの少きは何ぞや内務大臣か訓令を發して普通敎育の必要を僧侶に示さるヽもの又一應の理なしとせむや、臨機法を説き随時敎を布くは僧家の本分普通學の研究豈にこれ要なからむや、されど僧侶已に宗學を収めて住職となり若くは宗學はこれを師に受くるも山間僻地出でヽ普通學の研究を成す能はざるもの少しとせず予が本著を稿して其の指針を示し獨修の便に供せむとするもの實にこれあるか爲めなり、本書は實に普通學を獨修するものヽ南針たらんことを期しかねては普通學とは如何なるものぞ普通の智識とは如何なるものぞを知らしめんとするの微意に出たるものなり、故に本書を以て獨修の指針とせむとせらるヽは尤も望む所なりと雖も亦た唯本書のみを讀んで普通學の梗概を窺知せらるヽ讀者にも敢て益なきものにあらざるを自信す、」(P1~2)

⇒通常の教育において「普通學」に触れるものとは違い、僧侶となるために多くの時間を「宗學」の研究に費やす者においては、どうしても一般的な現象に対する認識が浅くなってしまう。
 この現状を打破するためには、学校教育に制限されない「獨修」(独学)に取り組むことが大切である。本書はその「独学」の導き書を目指して執筆されたと言ってよい。加えて、先程ターゲットには「僧侶」が想定されているといったが、一方で一般の人の「独学」にも活用されることを目指している。

 以上、本書の内容を確認する上で、「第一章、普通學の研究」の内容に簡単に触れてみた。ここで強調されていた「普通學」を学んでいく上で、その最たる手段として紹介されているのが「読書」ということになる。
 それでは次回より、本書の「第四章 讀書作文法 第一節 讀書法」について見ていきたいと思う。
 お読み頂きありがとうございました。


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