断念
「読書」が、社会通念を再検討する営みであるとすれば、現今は「コミュニケーション」を見直すべきだ、と最近思うようになった。
きっかけは、臨床心理士・信田さよ子の『コミュニケーション断念のすすめ』(亜紀書房)を読んだことが大きい。
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「コミュニケーション」は、掛け値なしに「良い」ものなのだろうか。そのことを疑う視点は、現在ほとんど見られない。
もちろん、コミュニケーションは不要であると断ずれば、そこに待っているのは暴力による解決である。暴力に発展することがないよう、最大限話し合いに力を注ぐというのが、現代の理想であり目標であることは言うまでもない。
ただ、現今の「コミュニケーション」は、その語尾に「能力」を付けて語られることが多いように、気づけば、身につけておかなければならないスキルの一つになった。
それなりの規模の書店に足を運べば、「コミュニケーション能力」の習得が、いかに人間の責務であるかのように謳われているか、容易に確認することができる。
ここで注意したいのは、「コミュニケーション」が一つのスキルになったことで、それは誰かに「良し・悪し」を評価される対象になったということである。つまり、本来コミュニケーションで前提となる公平性・対等性が、揺らぐ事態が生じたのだ。
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「コミュニケーション」が絶対視され、評価されるようになったとき、それは目上の者が目下の者に対し要求するものと化した。
信田さよ子も指摘するように、「コミュニケーション不足」を掲げて、「話せば分かる」と主張することが、いかに抑圧的になりうるかということは、種々のハラスメント加害者の言動を見れば明らかである。ここでは、「聞く」側の意志を無視するという暴力が働いている。
このことを踏まえた上で、それでもあえて「コミュニケーション」にスキルを見出すとすれば、それは言葉巧みに相手を納得させる話術ではなく、第一に自身と相手の関係性を意識し、場合によっては「コミュニケーションをとらない」と断念できる姿勢である。
現場現場で、「いま、コミュニケーションをとるのは適切か」と疑う。今後求められるのは、こういった「コミュニケーション」を絶対視しない態度だと言えそうだ。
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