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断念

 「読書」が、社会通念を再検討する営みであるとすれば、現今は「コミュニケーション」を見直すべきだ、と最近思うようになった。
 きっかけは、臨床心理士・信田さよ子の『コミュニケーション断念のすすめ』(亜紀書房)を読んだことが大きい。

 「コミュニケーション」は、掛け値なしに「良い」ものなのだろうか。そのことを疑う視点は、現在ほとんど見られない。
 もちろん、コミュニケーションは不要であると断ずれば、そこに待っているのは暴力による解決である。暴力に発展することがないよう、最大限話し合いに力を注ぐというのが、現代の理想であり目標であることは言うまでもない。

 ただ、現今の「コミュニケーション」は、その語尾に「能力」を付けて語られることが多いように、気づけば、身につけておかなければならないスキルの一つになった。
 それなりの規模の書店に足を運べば、「コミュニケーション能力」の習得が、いかに人間の責務であるかのように謳われているか、容易に確認することができる。

 ここで注意したいのは、「コミュニケーション」が一つのスキルになったことで、それは誰かに「良し・悪し」を評価される対象になったということである。つまり、本来コミュニケーションで前提となる公平性・対等性が、揺らぐ事態が生じたのだ。

「私は、「コミュニケーション」ということばは死んだ、と思っている。これほど便利で、かつ中身が空疎なことばはない。なぜかというと、たとえばセクハラ(セクシュアルハラスメント)、パワハラ、性犯罪、すべて加害者は「コミュニケーションがとれていた。納得の上じゃないか」と言う。子育てをする親は、「子どもとはコミュニケーションがとれているはず」と言う。実際は、片方がそう思っているだけで、もう片方はそう思っていない。
 そもそも、部下や子どもなどの「弱い」側は、上司や親など「強い」側とのコミュニケーションをどう考えているのだろうか。強い立場の側はコミュニケーションをとりたがるが、その力が強大であればあるほど、弱い側はコミュニケーションなどとりたいとは思っていないことが多いのではないだろうか。」
信田さよ子『コミュニケーション断念のすすめ』亜紀書房、P53〜54)

 「コミュニケーション」が絶対視され、評価されるようになったとき、それは目上の者が目下の者に対し要求するものと化した。
 信田さよ子も指摘するように、「コミュニケーション不足」を掲げて、「話せば分かる」と主張することが、いかに抑圧的になりうるかということは、種々のハラスメント加害者の言動を見れば明らかである。ここでは、「聞く」側の意志を無視するという暴力が働いている。

 このことを踏まえた上で、それでもあえて「コミュニケーション」にスキルを見出すとすれば、それは言葉巧みに相手を納得させる話術ではなく、第一に自身と相手の関係性を意識し、場合によっては「コミュニケーションをとらない」と断念できる姿勢である。

 現場現場で、「いま、コミュニケーションをとるのは適切か」と疑う。今後求められるのは、こういった「コミュニケーション」を絶対視しない態度だと言えそうだ。



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