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競走

 小説家・江國香織のエッセイを読んでいたら、次の文章に目が留まる。

「子供のころ、パンくい競走というものに憧れていた。漫画の本のなかでは運動会といえばそれがでてくるほど定番の競技であるらしいのに、私の通っていた学校では、とり入れられたためしのないものだったからだ。
 勿論いまになって考えれば、やってみたことがなくてよかった。あれは、たぶん屈辱的だ。飛びあがってパンをかじりとるなんて。しかも、すんでのところで紐が揺れ、口をあけても空振りをする(かもしれない)なんて。いったんそうなってしまうと紐がねじれ、へんな揺れ方をして、たべるのがますます難しくなるに違いない。想像するだに苛立たしい。」
江國香織『やわらかなレタス』文春文庫、P203)

 パンくい競走、運動会……。何とも懐かしい言葉だ。懐かしいが、じわーっと心が温まるような、振り返れる思い出もない。
 ……いや、一つ印象に残っているエピソードはある。あれは確か中学一年生のとき。障害物競走に参加したときのことだ。

 運動全般がからきし駄目だった私は、運動会という行事そのものを嫌悪していた。楽しみは、行事中に食べる昼ご飯だけで、おにぎりにかぶりつきながら、午後の部が急な豪雨で中止になることを願った。
 運動会が楽しくないのは、自分が貢献できる競技が無いからだ。全競技で足を引っ張る。そんな行事を楽しめるはずがない。
 そんな嫌な六年間を引きずったあとの、中学校の運動会である。当然悲観的になる。出来るだけ競技不参加で臨もうと決め込んでいたところ、サッカー部所属の友人Sが、急に「障害物競走で走ってもらうから」と声をかけてきた。
 検討の猶予は与えられない。すでに、障害物競走の中の「飴食いエリア」で走ることが決まっていた。私はSに「1番になれなくなるよ……」とぼやいたが、「順位は問題じゃないよ」と相手にされなかった。

 運動会本番に向け、体育の授業の数回が練習に当てられたが、そこに本物の飴が準備されることはない。コース上に二箇所、容れ物が置かれ、そこに粉・飴があるていにして、練習を行う。バトンの受け渡しの練習もない。つまり、限りなくぶっつけ本番だ。
 本番当日、慣れない晴れ舞台(?)を前にして、心臓をばくつかせていた私の元に、Sが近づいてくる。「飴食いのコツは、とにかく頭をつっこむこと。健闘を祈る」。そう言って、肩を叩かれた。
 レース直前になって気づいたのは、飴食い競争が、障害物競走の中のアンカーであること。自分がミスったら、それまでのクラスメイトの健闘が水の泡になる。そう考えると、心臓の鼓動がさらに早まり、今にも口から全ての臓器が出そうになった。

 レースが始まってからのことは、断片的にしか覚えていない。気づいたときには、前走者からバトンを受け取り、飴入り容器に向かって突っ走っていた。
 Sのアドバイス通り、飴の容器に顔を突っ込む。想像以上に粉の量が多く、一気に目の前が白く染まった。何とか飴は発掘できたが、顔も頭も真っ白になっていて、気づけばコースとは違う方向に駆け抜けていた。
 誘導員の助けもあり、何とかゴールに辿り着いたが、結果はビリ。「終わった……」と内心ビクビクしながら、クラスメイトのもとに戻る。

「めっちゃ、面白かった! ナイス!」

 不安に反して、クラスメイトの反応は良好で、むしろ褒められた。ビリであったことに言及する人は皆無で、面白いかどうかが重要だったようだ。

「予想以上に笑った。おつかれ」

 こう口にするSは満足気である。彼は最初から、面白くなることを予想していたのだ。
 結果的に、振り返れる運動会の思い出を作ることができたと考えると、Sには感謝しかない。



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