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漢詩

 ある晩、酒を飲みもしないのに衝動買いした、ホタテのアヒージョ(缶詰め)をちょびちょびつまみながら、同じく勢いで買った『白楽天詩集』を読んでいたら、ふと「俺はいつからこんな人間になったんだろう」と思った。

 唐揚げやハンバーグなど、がっつり目の料理しか受け付けなかった人間が、今ではアヒージョを、しかも自腹で購入している。「缶詰めサイズじゃ、お腹いっぱいにならないよ」と、10代の私がぶつぶつ言うのが聞こえてくる。
 『白楽天詩集』については、アヒージョの数倍理解できないだろう。入試で点数をとるためだけに、しぶしぶ付き合っていた「漢文」。入試が終われば、一生お別れ、と思っていたのに、その代表格である「白楽天」の本を自腹で買うなんて……。問題文に「白楽天」の文字を見るだけで、軽い目眩を覚えていた私は、一体どこにいったのか。

 正直、今の自分も、漢文自体が好きになったわけではない。もう一度、受験をするはめになったら、「白楽天」による目眩がぶり返すにちがいない。
 強制・義務感から解放されることによって、私は「白楽天」の作品を自ら進んで読む余裕を獲得した。

「食後
 食罷一覺睡
 起來兩甌茶
 擧頭看日影
 已復西南斜
 樂人惜日促
 憂人厭年賒
 無憂無樂者
 長短任生涯
(めしのあと
 めしの あと ちょっと いねむり
 めが さめて にはい おちゃ のむ
 あたま あげ ひあしを みれば
 にしみなみ いつか かたむく
 たのしけりゃ ひが みじかいし
 くるしけりゃ いちねん ながい
 くるしみも たのしみも なく
 ながみじか いのちに まかす)」
武部利男編訳『白楽天詩集』平凡社、P289)

 試験対策のために、かなりの量の漢文を読んでいたはずなのに、そのどれ一つとして記憶にないのは、そこに書かれていることを咀嚼して、身内に取り込もうとする意思が、そもそも無かったことのあらわれである。
 今では、試験時間等に縛られることなく、一つひとつの詩をじっくり読むことができる。希望は、今の自分に沁みる詩と出会うことであり、無事に邂逅が叶えば、一度本を閉じて、詩とともに散歩に出かけてもいい。

 「こういう楽しみ方ができるようになるよ」と10代の私に伝えても、彼は眉間に皺を寄せて、一ミリも取り合ってはくれないだろう。自力でしか気付けない喜びというものが、世の中にはある。



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