漢詩
ある晩、酒を飲みもしないのに衝動買いした、ホタテのアヒージョ(缶詰め)をちょびちょびつまみながら、同じく勢いで買った『白楽天詩集』を読んでいたら、ふと「俺はいつからこんな人間になったんだろう」と思った。
唐揚げやハンバーグなど、がっつり目の料理しか受け付けなかった人間が、今ではアヒージョを、しかも自腹で購入している。「缶詰めサイズじゃ、お腹いっぱいにならないよ」と、10代の私がぶつぶつ言うのが聞こえてくる。
『白楽天詩集』については、アヒージョの数倍理解できないだろう。入試で点数をとるためだけに、しぶしぶ付き合っていた「漢文」。入試が終われば、一生お別れ、と思っていたのに、その代表格である「白楽天」の本を自腹で買うなんて……。問題文に「白楽天」の文字を見るだけで、軽い目眩を覚えていた私は、一体どこにいったのか。
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正直、今の自分も、漢文自体が好きになったわけではない。もう一度、受験をするはめになったら、「白楽天」による目眩がぶり返すにちがいない。
強制・義務感から解放されることによって、私は「白楽天」の作品を自ら進んで読む余裕を獲得した。
試験対策のために、かなりの量の漢文を読んでいたはずなのに、そのどれ一つとして記憶にないのは、そこに書かれていることを咀嚼して、身内に取り込もうとする意思が、そもそも無かったことのあらわれである。
今では、試験時間等に縛られることなく、一つひとつの詩をじっくり読むことができる。希望は、今の自分に沁みる詩と出会うことであり、無事に邂逅が叶えば、一度本を閉じて、詩とともに散歩に出かけてもいい。
「こういう楽しみ方ができるようになるよ」と10代の私に伝えても、彼は眉間に皺を寄せて、一ミリも取り合ってはくれないだろう。自力でしか気付けない喜びというものが、世の中にはある。
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