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罰ゲーム
私は子どもの頃、たしかにテレビをよく見ていた。
なぜ、見ていたのだろう。最近、そのことをよく考える。
「テレビ、おもんないな」と思い始めたのは、高校生のとき。まったく見なくなったのは、一人暮らしが始まってから。
中学時代までは確実に見ていた。理由を考えると、テレビ番組が学校の同級生との共通話題であったことが大きい。テレビ番組とゲームと漫画。この三つに触れていなければクラスで孤立する、そんな空気感があったと思う。
となれば、その共通話題からテレビ番組が外れてしまえば、半ば義務的にテレビを見る必要もなくなる。実際、高校入学後はそうなった。
*
こう書いていくと、元からテレビを見るのがあまり好きではなかったととられかねないが、そんなことはない。好きなことは、好きだった。ただ時々テレビ番組を見ながら、「……ん?」と引っかかる場面はあったけれど。それが「テレビを見ない」になるまでには至らなかった。
私はテレビ番組のどの場面に、引っかかりを感じていたのだろう。そう考えていたとき、たまたま読んでいた書籍の一節に目がとまった。
「罰ゲームと称し、あるいは単に人が嫌がっている様子を周りの人が楽しむために、ヘビやトカゲ、カエル、ゴキブリなどの生き物が使われることには違和感や憤りの感情を禁じ得ません。
生き物にとっては負担でしかなく、突発的な外傷やストレスが心配です。以前、尻尾が途中で切れたイグアナを病理解剖したことがありますが、これも扱いに不慣れな人が尻尾を無理やりつかんだために自切したものでした。」
(中村進一『死んだ動物の体の中で起こっていたこと』ブックマン社、P128〜129)
テレビ番組内で展開される「罰ゲーム」に関して、人間が人間に対して行う"暴力"については、私は特に拒否感を覚えたことはなかった。それはそれで問題であり、別に機会を設けて議論する必要があるが、私が抵抗を感じていたのは、生き物を使った人間への「罰ゲーム」である。
「生き物の中には、見た目や手触り、衛生面、牙や毒の有無などにより、人に気持ち悪がられたり怖がられたりするものもいます。その嫌悪感や恐怖心は、人と生き物が適切な距離を取るためにも必要なものであり、そういった感情を抱くこと自体を否定するつもりはありません。
しかし、どんな生き物も尊い存在です。
特定の生き物を気持ち悪がったり怖がったりする様子や、それを「娯楽」として消費する大人たちの姿が、感受性の強い子どもたちにどんな影響を及ぼすか……。」
(中村進一『死んだ動物の体の中で起こっていたこと』ブックマン社、P129〜130)
獣医病理医・中村進一の一連の記述を読むことによって、私がテレビ番組に対して度々感じていた引っかかりの一端に、何とか言葉を与えられるようになった。
「罰ゲーム!」のコールとともに、準備される一つの箱。中には生き物がいる。箱の両側面には穴があいており、そこから手を入れて、中をおそるおそる探っていく。生き物に手が触れたと感じるやいなや、「ぎゃッ!」と叫び声をあげる。これが「罰ゲーム」の典型的な流れの一つだ。
私はこれを見ながら、なぜか笑えないでいる自分に気づいていた。だがなぜ笑えないのか、うまく言語化することができなかった。とりあえず当時は、「罰ゲーム」の内容自体がつまらない、という考えに落ち着いていたが、今では、箱の中の生き物たちのぞんざいな扱いに、不快感を覚えていたことが分かる。
読書を通じて、心のモヤモヤが一つ解消した。
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