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朗読

 現代は読書を「耳」でもする時代である。
 様々なコンテンツが、人間の「視覚」の奪い合いをする中で、作業をしながらでも空いている「聴覚」は、重要なマーケットとなる。そこに出版界が参入するのは当然の流れで、今ではネットショッピングのサイトを開けば、本・電子書籍と同じような気軽さでオーディオブックも購入可能となった。

 とはいえ、書籍の内容を「耳」で楽しむというカルチャーは、何も今に始まったものではない。カセットテープやCDに吹き込まれた朗読を通して、本の世界を楽しんでいる人は以前からいた。
 今回はその実例として、作家・高島俊男のエッセイを紹介してみたい。

 『週刊文春』の連載「お言葉ですが…」で知られる高島俊男は、60代のとき、目の不調を補う形で「耳」の読書を始めた。
 随分聞いた中で、「これでキマリ!」と確信したのが、俳優・高橋昌也が朗読した『断腸亭日乗』だったという。
 私自身、『断腸亭日乗』はお気に入りの作品で、抄録の岩波文庫版を初めて読んだときの感動は今でも覚えているが、人の声を介して作品を味わった経験はない。

 高島は、高橋昌也版『断腸亭日乗』の魅力を、次のように述べている。

「これ(『断腸亭日乗』:注)は永井荷風の、大正六年三十九歳の年から、昭和三十四年八十一歳四月二十九日(死の前日)にいたるまでの日記である。これを高橋さんは、ちょっと喉に痰がからまりかけたようなゴロゴロした老人声でよむ。これがぴったりなのだ。
 このゴロゴロ声がもっとも精彩をはなつのは、死の年昭和三十四年である。この年になるともう記事はごくすくない。四月にはいるとほとんど日づけと天気だけになる。
 この部分のよみが絶妙なのだ。内容は何もないにひとしい単なる日づけと天気の羅列を高橋さんは、だんだん緩慢に、だんだん弱々しく、狷介で剛情な老人がとぼとぼとあの世へむかってあゆむ孤独な姿が目に見えるように、ていねいによんでゆく。まさしく声の藝術である。」
高島俊男『「最後の」お言葉ですが…』ちくま文庫、P51〜52)

 聴いてみたい! 高島が受けた感動が、如実に伝わってくる文章に、唸る。
 この文章には、高島の個人的な感動に加えて、読書を「耳」ですることの特異な魅力が語られているように思える。朗読者が、本文を単調には読まず、内容に応じて読み分けることによって、味わいを数倍にも数十倍にも引き上げることができるのだ。
 もちろん、これは逆の場合にも言えることで、朗読者と作品の相性が悪ければ、読者に作品の良さが充分に伝わらない可能性もある。
 ここから、オーディオブックというものは、本文を単に「音」に変換しているのではなく、個性を持った「声」に変換しているのであり、誰が読むか、どう読むか、といった要素の違いによって、作品の印象が大きく変化することが分かる。
 こう考えると、「耳」でする読書には、本・電子書籍による読書とはまた違った、奥深さと広がりがあるように思える。現状は広く実装されていないが、一つの作品を、複数の声から選択して聞けるようになれば、声ごとの印象の違いなど、作品を新たな切り口で味わえるようになるだろう。
 今後に期待したい。


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