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書き写す

 数年前、大学の講義の一環で、老人ホームでの研修に参加したことがある。
 研修といっても、自分にできることはほとんどなく、ただひたすら入所者の方から貴重な話を伺った。
 今回は、その中でも特に印象に残っている、男性入所者(以下、Mさん)の話を紹介したい。

 Mさんは、私と年齢が四倍以上離れている、人生の大先輩。出版社で編集者として定年まで勤め上げたが、元々は作家志望だった、と振り返る。
 本好きの私は、前のめりになってMさんの話を聞く。没頭しすぎて、「研修」であることを忘れていた。

 作家になるために、十代の頃していたことがある。何だと思う?、と問われたので、「作家を一人決めて、その著作を全て読む、ですか」と答えた。
 惜しい、惜しい、と笑顔。「読むではなく、書くだね」とのこと。……書く?

 敬愛する作家の作品を、ひたすら紙に書き写していく。自分を魅了してやまない文体を、身体に覚えさせていくのだ。Mさんの語りが熱を帯びる。私もその熱にほだされて、「なるほど、なるほど」と強く頷く。
 ちなみに、若きMさんが敬愛した作家は、かの有名な泉鏡花だった。

「もとの邸町の、荒果てた土塀が今もそのままになっている。……雪が消えて、まだ間もない、乾いたばかりのーー山国でーー石のごつごつした狭い小路が、霞みながら一条煙のように、ぼっと黄昏れて行く。」

 スッと一節を誦じる。すごいっ! と感心したが、泉鏡花の作品をほとんど読んでいなかった当時の私には、何という作品の文章なのかは分からず。後で調べて、それは「絵本の春」の冒頭部分であることが分かった。

 このように貴重な話を伺ってからというもの、どれほどの人が、同様の実践(書き写し)を行ってきたのか、気になってちょくちょく調べるようになった。

「良い文章を書きうつすということを、十代からはじめ、いまだにやっているのだが、それとはべつに、ひとつの作品を最初から最後まで書きうつしたら何がわかるだろう、とおもい、自分が好きな作品を選んで、その作業をはじめたのが、三十代のなかばで、これもいまだにつづけている。まったく自慢にならないが、その作業を完了させた作品はひとつもない。しかしながら、自分の作品ではないのだから書きうつし終えることに意義があるわけではなく、過程、あるいは途中に、すべてがあるといってよい。」
宮城谷昌光『他者が他者であること』文春文庫、P203)

 一事例として紹介したいのは、作家・宮城谷昌光による「実践」。
 宮城谷の場合、十代の頃に限らず、二十代、三十代と齢を重ねていっても、書き写しを継続している。そこで対象に選ばれたのは、作家の藤沢周平であった。
 宮城谷は書き写しを通して、いかに藤沢作品がその初期から完成されており、文章技法の点から見ても頂点に達していたかに気づかされる。そしてそれが、後々藤沢周平自身を縛り、苦闘を強いられるにいたることも。

 「書き写し」の実践は、今でも作家志望の人々の間で行われているのだろうか。リアルタイムで実践している人の話を、いつか聞いてみたいと思っている。



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