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 古本まつりの棚にはずらっと並んでいるが、新刊書店では見かけない作家と本がある。
 一人例をあげれば、独文学者・高橋義孝。
 彼の随筆・エッセイは、いくつも文庫化されており、古本まつりの棚にまとめて置いてあることがある。
 気を張らずに読める軽快な筆致と、ユニークな視点。これはハマる人がいるだろうな、と思わせるだけの魅力はある。
 ただ、これらの随筆・エッセイを、新刊書店で入手することは難しい。

……と、ここまで書いておいてあれだが、一箇所訂正しておきたい。
 それは冒頭の「新刊書店では見かけない作家」の部分である。
 近所の書店に足を運ぶだけでも、高橋義孝の名前を簡単に見つけることができる。

・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』(一・二)
・カフカ『変身』
・トーマス・マン『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』

 列挙したのは、新潮文庫から出ている翻訳書。どれもこれも、長年読まれ続けている古典的名著だが、これら全てを翻訳しているのが高橋義孝だ。
 カフカの顔面が印象的な『変身』の表紙にも、「高橋義孝 訳」と印字してある。
 「新刊書店では見かけない作家」というのは明らかな間違いである。訂正し、お詫びしたい。

 とはいえ、高橋義孝の著作の方が、新刊書店で手に入りにくくなっているのも、一方で事実ではある。
 読めるようになったらいいなと思っていたら、河出書房新社がその願いを叶えてくれた。
 かつて1976年9月に刊行されたエッセイ集『飲み食いのこと』が、改題して書店に戻ってきたのだ。

「舌は、味覚は、怖るべき保守主義者である。
 お酒をよく飲むので、朝、食欲がない。若い時分なら、胃の調子さえよかったら、さぞうまかろうと思われるものも、食べて少しもうまくはない。ところが食卓に、子供の時分に食べ慣れたものが出てくると、食欲はないのに、ものそのものは決してうまいものではないのに、不思議と喉に通る。炒り玉子がその一つである。炒り玉子は学校へ持って行くお弁当のおかずであった。舌とは古い馴染みである。」
高橋義孝『蝶ネクタイ先生の飲み食い談義』河出文庫、P166)

 エッセイ「儚い望み」から、一つ文章を引いてみた。私が「気を張らずに読める軽快な筆致と、ユニークな視点」と評したニュアンスが、少しでも伝わっただろうか。
 まだ見ぬ絶品を求め歩くのも、それはそれで楽しいが、馴染みの一品を口にして「これ、これ!」と唸るときには、身・心がともに満たされる。舌自体がリラックスしている感覚もある。

「ひとが食べ物のことを書いているのを読むと、大抵はそのひとが子供の時分に好んで食べたもののことがどこかに出てくる。しかも、忘れられぬ、うまい食べ物として書かれているのがつねである。そして、自分が子供の時分に食べたこれこれの食べ物はうまかったし今でもうまいといっている。なかには、天下にこれに勝る美味はないと断言するひともいる。」
高橋義孝『蝶ネクタイ先生の飲み食い談義』河出文庫、P175)

 高橋義孝のこの指摘は、あらゆる食エッセイを読むときに頭に留めておきたいものだ。
 津々浦々の名店に足を運び、食通として定評のある作家においても、その著作に目を通してみると、幼少期に口にした食べ物を熱く語っているときがある。そのとき、他のどの名店の料理よりも、その幼少期の食べ物に心惹かれ、「食べてみたいなぁ」と思うのは、決して私だけではないだろう。



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