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資料性

 本を世に送り出す人間が、本そのものを好きであるとは限らない。
 これは、作家の随筆やエッセイをある程度読んでいくと、自然に気づくことである。

 一部の作家は、本というモノ自体にはさして愛着はなく、大事なのは中身である、という点を力説する。中身が吸収できればいいのだから、傷がつく/つかないを気にして、本を丁重に扱ったりはしない。用途に応じて、本をバラバラにすることも厭わない。
 今ではこういう発言にも慣れていて、「ワイルドだな」ぐらいにしか思わないが、初期の頃はとにかくショックだった。勝手にイメージで「本そのものを愛していそう」と思っていた作家が、容赦なく本を破って使用するのを知って、唖然とした。

 ここで注目したいのは、「大事なのは中身である」という主張である。
 確かに、本文が本における主演であることは間違いない。本文のない本は、タコが入っていないたこ焼きと似ている。どれだけ外側がカリカリで好食感であっても、肝心の具が入っていなければ欠陥品である。「タコが無くてもいい!」という人もいるかもしれないが、それならわざわざたこ焼きを食べる必要はない、ということになる。

 ここで、やっぱり、大事なのは中身ですよね!……で締めてしまうのもつまらないので、一つ疑問を挟んでみたい。それは、私たちに貴重な知識や情報を提供してくれるのは、果たして本文だけだろうか、である。

「近頃、本をテキストとやらに解体して、文字面だけあればよいとする輩が増えているが、トータルとしての本の魅力や意義がわからない連中に、文学を語る資格はない。本の資料性は、けっしてテキストだけにあるんじゃない。箱やカバーなどの装幀、紙質、活字の組み方など、同時代の感性や作品そのものの位置を反映しているんだ。テキストだけでいいというなら、すべての文学作品は複写でよいということになる。」
紀田順一郎『神保町の怪人』創元推理文庫、P108)

 引用したのは、紀田順一郎の描く古書ミステリ、「『憂鬱な愛人』事件」に出てくる登場人物の言葉である。
 発言のトーンは高圧的で、非常に説教臭いが、内容自体には共感できる点が多くある。
 「資料性」という観点を導入することによって、本というパッケージが、いかに多くの情報を私たちに提供してくれるかが明瞭になっている。場合によっては、本文(テキスト)よりも、それ以外の要素の方が、貴重な情報源になる可能性がある。

 本の中身が大事なのは、間違いない。だが、中身さえあればいい、という主張には、いくらでもツッコミようがある。この点は、強く指摘しておきたい。




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